『漢の武帝』感想

漢の武帝 (岩波新書 青版 (24))

漢の武帝 (岩波新書 青版 (24))

 

 紀元前141年に即位した漢の武帝、半世紀にわたる統治の時代を4期に分けて、独裁者の権力を存分に振るった中国史上の輝かしい時代を、漢学者特有の、無駄のない、それでいて豊かな語彙と言い回しで述べてゆく。

 勢いを増していく時代には若い武帝の柔軟で先見性のある様と呼応するように大繁栄を支える大物、曲者が各界に揃う。陳皇后、董太后、田蚡、大将軍衛青、匈奴軍臣単于、丞相公孫弘、社稷の臣である汲黯、儒学者や宮廷詩人である董仲舒、厳助、朱買臣、司馬相如、東方朔、張騫の鑿空(探検旅行)。時代が少し下って若くして病死する票騎将軍霍去病、強硬な税負荷をかけた丞相張湯、勢いはさらに増すが武帝の精神がやや弛緩する後期にはその時代にふさわしい怪しげな人物、影のある人物たちが現れて来る、方士李少君、少翁、公孫卿、若く美しい記憶を武帝に残して死ぬ李夫人、匈奴征討に荒野を彷徨い最後には匈奴につかまり殺された李広利弐師将軍。戻太子(皇太子)を殺す羽目になる悲劇(じきに衛皇后にも及ぶ)を決定的にする人物紅充は、武帝の晩年にふさわしい陰険な悪役として存在感がある。

 登場人物たちは、信仰・思想、政治姿勢、性格等々さまざまな人物類型が立ち現れて、かつ彼らは感情表現豊かで、まるで悲喜劇中の人物に思われる。悲恋の漢詩を残した者、凄まじい死を迎えた者、そうした彼らを歴史書に残した者、等々。

 物語としては古びた類型の人物たちによるであろうが、約2000年にわたる中国文化の方向性を儒教や詩作の重視、交易拡大などで決定づけた中国史上輝かしい位置づけは揺るがないだろう。

 

『アフリカを見る アフリカから見る』感想

 

アフリカを見る アフリカから見る (ちくま新書)

アフリカを見る アフリカから見る (ちくま新書)

 

要約 

 アフリカは経済的に遅れている・発展しないという認識は時代遅れのアフリカ観であり、大企業の経営層・年配のビジネスマンがアフリカとビジネスをしたがらない傾向にある間に、先進的な携帯電話事業や電子決済インフラなどが普及している。支援ではなく投資をしてほしい、とアフリカのエリート層は言う段階にある。エチオピアは2017年までの20年でGDPがおよそ10倍になり、対中国債務が過剰である、政情不安があるなど問題も抱えるが今や高層ビルの立ち並び、モノレールの走るなど発展している国である。

 中国がジブチに軍事拠点を構築しつつあるのは、シルクロードの経済圏を構成したい目論見がある。中国資本がアフリカ各国に入っているが、労働・資源・土地を奪うという印象はあまりなく、資本投入があること自体は肯定的で、したたかである。アフリカの政治的パワーは大国に比べ小さいが、過去に日本の常任理事国入りにアフリカ連合が待ったをかけたことがあるなど、日本の国益にも影響のある相手である。NGOPKOは規模では中国にかなわないが、現在の比較優位や差別化を図って支援の中で存在感を発揮し続ける工夫が必要である。

 コートジボワールの90年代ナショナリズム・排外主義(元から在住する「イボワリアン」優位に見る観念)が国を二分する内戦を起こした例や、ケニアのナイロビで一般市民が起こした集団暴力に見る集団極性化の例は同時代に起きた事態として深刻で、先進国でそこまで再現されることがなくとも、紙一重であり、示唆する所がある。

感想

 対アフリカの政治やビジネスが語られる前提となるべき情勢を知る手段が、日本語では難しいことが述べられていて、書籍『ファクトフルネス』では国連専門家も20年前の認識で止まっている例示があったように、バイアスは日本ばかりではなかろうが、自分の生活の中でのアフリカのイメージを思い返すに、確かに子どもの支援NPOなどのイメージが強い。日本人からは経済・政治情勢を追い続けるのが難しいのが、アフリカに投資する企業にはビジネスを拡大するチャンスがあり、そうした企業への投資や支援にも価値が見いだせてもリスクを追えないハードルであろうと思える。ハードルを越えられないのは、HowとWhoのいずれの問題でもありそう。一般的な日本人に一番身近なのを考えると、投資信託などでアフリカ企業への投資パッケージだろうか。ほかに一般的な日本人が対アフリカで関係を深める手段としては、低いハードルとして思いつく中では、クラウドファンディングの枠組みなどがあろうと考えた。

『「家族の幸せ」の経済学』メモ

 

「家族の幸せ」の経済学 データ分析でわかった結婚、出産、子育ての真実 (光文社新書)
 

  本書は、著者が研究の対象としている結婚、出産、子育てなどを扱う「家族の経済学」についての最新の研究成果を一般に紹介したもの。論理展開、エビデンス、気を使った言葉遣いが徹底され、豊富な研究の引用から、何がどこまでが明らかにされているかを幅広く触れている。注の文献はほぼすべて英論文、日本語で類書はない。政策への言及がはっきりしていて、この成果が十分多くの政治家・厚労省職員に伝わっていることを祈る。個別の家族に対しては、「自分の子育ては特殊か?」といった悩みにはヒントが得られる部分があろうと思う。しかし当然家族のあり方の意思決定がそれぞれに試行錯誤されることは本研究分野の進展に関わらず変わらない。著者も試行錯誤する父である姿がところどころに触れられている。

メモ

 1章―結婚の経済学―結婚はそもそもリスクの分かち合い、分業の利益、費用節約のために行う。きっかけの「場所」はオフラインが減りオンラインが増えている。海外のマッチングサイトのデータを用いた研究はユニークである。

 2章―赤ちゃんの経済学―赤ちゃんの出生体重が高いと、健康や所得などに正の影響がある。帝王切開は余計に行われる恐れがある(米国の研究では少子化⇒出産率現象⇒収入減⇒より報酬高い帝王切開を選択、という例が報告されている)。帝王切開で生まれた子どもが問題を抱えやすくなるのは肺・呼吸器・免疫発達だが、注意欠陥、多動性、自閉症には関係ない。働く女性の子どもは低体重になりやすい。かつては生きられなかった子どもを助けられるようになったのも、低体重児増加傾向の一助。電車で席を譲るなどの配慮は重要。母乳育児により生後1年の胃腸炎や湿疹が減り、また理由は不明だが赤ちゃんの突発死は減る傾向があるが、肥満、アレルギー、ぜんそくの防止効果は確認されない。母乳育児でないことで知能へ負の影響が出ることも確認されない。選択は個人の判断が尊重されるべき。

 3章―育休の経済学―育休制度は、雇用保障と給付金の2本の柱から成り立っている。親が仕事を続けるうえで、母は職場復帰がスムーズになるように働きやすさへの好影響があるが、長すぎると逆効果。米国IT企業は制度充実で人材確保の例がある。オーストリア・カナダ・スウェーデンデンマークの研究では、生後1年で母と過ごした期間の長さは、子どもの将来の進学・所得にほぼ影響を与えていないと示された。育休の先行研究を踏まえて理論を織り込んで予測すると、日本では1年の育休は母の就業に正の影響があるが、3年の育休に追加的効果がなく、3年の育休は制度として不要と示された。給付金の充実よりも、保育園の充実を政策として重視すべき。

 4章―イクメンの経済学―日本の2017年度の父の育休取得率は5%で過去最高だが女性に対しあまりに低く、海外に比べても低い。北欧3国では父の育休取得は7割に上る。北欧の父たちもキャリアへの悪影響や上司・同僚の目を気にするが、一部の人が勇気を出してとる⇒キャリアに悪影響なし⇒周囲もとるという好循環があって拡大した。ある北欧の研究では同僚や兄弟に育休取った人が居たら、とる率が11~15%増加した。日本では、サービス残業禁止の徹底などのキャリアに不利にならない法整備、会社からの上乗せ給付、そうした実態を育休取得者が他の社員への共有、という段階を踏む必要がある。父が育休を取得すると、ノルウェーの例では4週間の育休でその後の収入が2%減り、育休後も子育て・家事に熱心になるからと考察されている。スウェーデンの研究では、父が育休を取っても熱を出した時の看病を増加させないが、子の16歳時点での偏差値を1高めた。ある研究では、父の育休は1か月間でも、子育て、家事時間が平均数十分増え、ライフスタイルを変えたことを示した。アイスランドでは父の育休で離婚率を減らしたが、スウェーデンでは増やしており、違いの理由は今後の研究が待たれる。

 5章―保育園の経済学―保育政策においてあまり顧みられない当事者としての子どもへの影響を示す。幼児教育の場としての保育園は、IQだけでなく社会情緒的能力を改善する。ヘックマンの「ペリー就学前プロジェクト」は40歳まで長期追跡調査された保育プログラムだが、それによれば保育園によって将来の高校卒業率、就業率、収入を増加させ、生活保護率や警察逮捕回数の減少があった。社会生活面で大きな効果を発揮するのに重要だったのは、周囲の人々との間で軋轢を生ずる問題行動を減らしたことである。大規模な施策だったが犯罪の減少や社会福利費用の減少などを総計して、社会によっての収益率が7.7%と費用を超えて高い利益を上げる優良プロジェクトだった。ただ、日本版の同様のプロジェクトの効果は、もともとの犯罪率の低さや教育の質の高さから、低かろう事が想定される。それでも日本にも示唆する所があり、保育園は恵まれない子供への幼児教育効果がより高いということであり、国は保育士の一定の質を確保する政策を重視すべきである。また著者の研究によれば保育園は母の幸福度にも好影響がある。待機児童解消を伴わない幼児教育の無償化を進めるより、所得の高い仮定にはより高い料金を課すなどしつつ、認可保育所の供給を増やすために予算を使うべき。

 6章―離婚の経済学―ある年について(離婚件数)÷(結婚件数)で出された3人に1人が離婚しているという表現は正しくない。なぜなら、離婚した夫婦は結婚件数の多かった過去に結婚しているから、分子の離婚件数が結婚件数に対して過剰な数になるため。制度が変わって離婚しやすくなることは不幸とは限らず、いざというときに離婚できることがDVの抑止になることが米・スペインの研究で示されている。離婚しにくくするのでなく、離婚後の金銭・学費・給食・医療補助などの子どもへの直接のフォローが重要。共同親権は日本での導入に至るには「子どもの最善の利益」にかなっているのかが重要だが、十分なエビデンスはそろっていない。

『フランス文学講義 言葉とイメージをめぐる12章』メモ・感想

 

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

 

メモ

  明確な色や形の存在しない、文字を通したイメージのために重要なのは、人が何を見ているかよりも、見ようとする眼差しが重要であり、フランス近代文学はその眼差し、つまり個人を通してものが見えてくる過程を徹底して分析するという遺産を残したという。12章にわたる作品とそれが表現しようとしたイメージの紹介を材料に、読者は物語を通して「見ている」ものは何か、書かれているものは何かを考えさせられる。(はじめに)

 王侯貴族や伝説上の人物ではなくて、自分と同じような人物に向って語りかけようとする小説の目論見は、フランスにおいてはジャン・ジャック・ルソーが『告白録』で後に追随する者もいないだろうと書いたように近代において新たな思潮だった。ルソーは、現実性に対して、出来事を見詰め、語る人間の側に宿っているという新しい見方を確立した。その現実性は、人間の生来の環境や変転といった一挙に見渡せない時間の厚みとともに示された。この時間のモチーフを劇的に展開したのがロラン夫人の『回想録』である。フランス革命の獄中で、生命の失われる瞬間に、一人の人間がたどった道のりを思い出して再現する、このロラン夫人が身を置いたフレームが、作品の細部に生気を吹き込んでいる。(1章)

 20世紀に下る中で人間が自律的であるという認識が解体されて、それでもある人物の主観を通してみる姿勢は全ては失われず、ある部分は残った。変わらなかった部分は、人は自分の目で世界を発見してゆくしかないという平凡な事実である。知覚のあり方を変えた近代のテクノロジーは、20世紀の人間にとっての現実の土壌となって、メディア、移動手段、生活の形態、あらゆる形の媒体を生み出し、記号の集積によってイメージ空間に入り込むための扉の鍵となった。……その中でも写真は、ある人物の主観から見て、どこまでも掘り下げることのできる井戸のようなものであり、見えないものを見えるようにする道筋をつくるものとして小説や自伝に新たな道を開いた。(第3部冒頭)

感想

 「はじめに」の気になる表現として、以下の文がある。

ある人間の主観を通して外部を見つめるという姿勢は、相対化され、すでに終わった<文学>の問題と簡単に片づけられてしまうかもしれない。……そこに現代につながるものが本当に何もないと言い切れるのだろうか。

言葉とイメージとの関係は、どれほど時代が変わっても、絶え間なく再編され、新たな道筋が探られる、創作の源泉のひとつなのだ。

 自ら世界を発見してゆくしかない、ということは20世紀に残った文学や文芸の鍵であり続けていることは第3部冒頭で述べられていた。これは次のように言えるだろう。つまり、今世に出つつある書籍においても、言葉とイメージとの関係は絶え間なく再編されているが、たいていの場合、ある人間の主観を通して外部を見つめるという姿勢は、相対化され、現代に新たな知的枠組みを生み出すものとは考えられていない。

 しかし文学に詳しくない私には近代文学が解明してきた言葉とイメージの関係は、目新しく感じられ、価値のあるものであるように思われる。同時代の文学として重視される価値あるものが、その時代が抱える社会情勢を背景にして見出されることはもちろん分かっているものの、本書に紹介されたような古い文章に触れることで自分には未知なる言葉とイメージの関係を会得したときの充実感は、他のものに変えがたい。つまり、近代文学と同じ枠組みの文学作品が価値のあるものとして世に出ることはなくても、言葉とイメージの関係そのもの(という言葉と、イメージの関係)が本書で再編されたことは、私にとって大きな価値があった。

 近代のテクノロジーを考えてみて、文字ではない媒体が生み出すイメージの影響が非常に強くなったために、閉じた生活圏の中のイメージは容易に共有することが出来る代わりに、その外にある新たな言葉とイメージとの関係を見出すのは難しくなっているのではないかということも考えた。

『コケはなぜに美しい』感想

  知られざるコケの美しさを紹介すべく、本書は執筆されている。みずみずしく美しく、文化的にも、わび・さびに代表される日本の美意識にコケは深く関連している。生える環境によってコケの生き方も変わる。その姿を、都市、庭園、農村、里山、深山、高山、水辺というそれぞれの環境ごとに紹介していく。

コケはなぜに美しい (NHK出版新書)

コケはなぜに美しい (NHK出版新書)

  • 作者:大石 善隆
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2019/06/11
  • メディア: 新書
 

 悠久の時を想起させる存在としてコケは見られてきたというが、私もまた本書の写真や、たまに群生するコケを見るにつけ、同感に思うところがある。力の及ばない畏怖すべきものを山に見る山岳信仰の歴史が世界各国にあるが、山を恐れない者にとっても、深山でコケの生え揃うような場所は、雑踏に生きる人が日ごろ味わうことのない静けさがある。物音を立てるのは遠い川音ばかりで、あたり一面、長きにわたって人の手が入っておらず、人を寄せ付けずに来た場所であることに気づくとき、確かに心許ないような気持ちに襲われる。深山の章は、そうした屋久島や台湾の雲霧林の圧倒される風景を紹介している。

 また、庭園の章では、万葉集にはコケのじゅうたんの美しさを歌ったものがあるのを著者は紹介している。庭園の章ではよく生え揃ったコケが庭園を美しく見えるさまを、著者自身が撮影した京都の有名なコケ庭の写真によって示している。中世に美意識が成熟する中で、コケが庭に取り居られるようになった経緯が歴史上あったことは、今の自分から見て当時の人たちは独特な発想をするものだと思えて、それでは中世の人々いかなる生活・時代だったのだろうかと気になった。

 このように美しいものとしてのコケを、文章と豊富な写真で紹介する本書であるが、そのコケに対する眼差しとして、もちろんコケ生物学者としての科学的なものも紹介している。高山の章では、越境大気汚染の、高山における影響を計測するために、地上に設置する大掛かりな観測装置の代わりに、高山に生えるコケが取り込んだ空気中の物質を分析する、という研究をひらめきをきっかけに行ったことも紹介されている。行われた後の今では大気汚染調査手法の一つとなっているのかもしれないが、いざ問題意識があって初めて、コケで調べようなどとは、その道のプロにしか思いつかないことだと思われた。ほかにも、コケのじゅうたんが細かい構造をしているために音を吸収するので、事実静かになる著者という。コケをただ美しいもの、生きものとして見るばかりではない、さらに異なる角度で見ることができることも示していると感じた。

 終章で触れられるコケが直面する重大な環境問題についても心に留めるべきであるが、以上のようなコケのつくり出す風景の美しさに加え、環境により代表的な種とその魅力を紹介するのがやはり本書の主眼で、それだけでなく、コケを五感で味わったり(味わう章)、地蔵や狛犬がコケで覆われた風景を探しては写真に収めるなど、ユーモラスな記述も幕間になって、興味深く楽しい1冊だ。

『日本近代文学入門』感想

 

日本近代文学入門-12人の文豪と名作の真実 (中公新書)

日本近代文学入門-12人の文豪と名作の真実 (中公新書)

 

  近代文学史の普通の体裁を取らず、共通点・相違点、関係性に主に着目し、2人×6章の構成を取る。それによって人間的な側面を浮き彫りにすることを狙っていることが冒頭に述べられている。明治時代の出版物や写真を図で豊富に掲載されていてイメージが持ちやすく、学説の根拠にあたる手紙などに第一線の研究の成果を見ることが出来る。

 まず三遊亭円朝はその文学史上の位置づけはともかく、人となりが語られるのは珍しい気がする。父の円生が嫌がらせにネタをかぶせて来るのをきっかけに新作で名を売ったとか、怪談『真景累ヶ淵』などが身辺の噂話に材を取ったとか、そういったエピソードに円朝の過去のインタビューの抜粋などを織り交ぜてあって、真実味がある。子どもの頃、雪の中裸足で稽古へ通ったエピソード(p.11)くらいから伝説めく気がしてしまうが、これに限らず時代背景を加味して真偽を判断するのは明治くらいまでさかのぼると大変そうに想像される。

 樋口一葉半井桃水とのスキャンダル前後について詳しく述べられていて、時により師桃水や同時代の女流文士・田辺果圃に対し、一面的ならぬ感情を持っていたことがわかって、そういう側面もあるんだなと思った。文壇で活発的に交流をする前に亡くなっているので、日記から研究の進んだ人物であるようで、紙幣上で一番知らない人物のことを少し知れてよかった。田辺果圃は、華美な鹿鳴館の描写などが優れて注目され、女性作家として注目されたこと自体画期的であった人物として紹介されている。当時の知名度に対して将来からの評価は一葉に対して当然低いが、そういう作家は昭和までで何人かいて、同時代の作家が今後評価されることを鋭く指摘しているエピソードをしばしば見る気がする。翻ってノーベル文学賞の授賞理由など、深掘りしてみると文学の見かたがわかって面白そうだ。

 尾崎紅葉については、「はじめに」でいきなり触れるなど、印象的な人物として紹介されている。一派を率いて時代を作った人物だけあって凄まじいエピソードが多く語り継がれているのがわかる。エンタメ性や流行を強く意識していたので現代人はあまり読まないが、美文へのこだわりや言文一致の作品を含む文体の独自性など、作家として抜群の才能を持っていたことが肯定的に述べられている。他書で正宗白鳥も影響は受けなかったが耽読はした、というのを見かけたが、本書がさまざまなエピソードに触れるにつけ、一度は代表作を読んでみたいと感じた。

 夏目漱石は『虞美人草』について詳しく触れられている。初期の作品・前後期三部作に比べて影の薄い本作が、批評家からは厳しい目で見られており、ところが大衆には大々的に受け入れられたことが興味深い。自分がもし同時代の人間だったら、新聞がメディアの権威で、学者が大々的に文学で食っていく第1作だったとしたら、それは大流行になるだろう。三越虞美人草の意匠柄の着物を高く売るとか、お祭り商売は時代を超えて変わらないのは感心する。

 黒岩涙香については、『巌窟王』のタイトルは聞いた覚えがある。日本風の設定に替えるなどの「超訳」で推理小説や冒険物語などの翻訳小説を残したが、タイトルセンスはジャーナリストらしい日本人の頭に残るものを持っていた、という紹介が、そういう観点で作家を見る、という考えがあるのだな、と参考になった。涙香のキャッチ―さがあったために、触発されて再翻訳や同ジャンルの紹介など、追随する作家もいて、それもまた小説の歴史上価値のあることだったというのは、現代の海外文学受容におけるキーパーソンが誰か、という検討に大きな評価の軸になりそうだ。

 キーンの文学史の中で、斎藤緑雨が残した中なら警句集が一番時代を超えて読まれるだろう、というのも印象に残ったが、芥川龍之介の『侏儒の言葉』が本書では紹介されていて、触発された『悪魔の辞典』にも引けを取らない鋭い作品であるという。『侏儒の言葉』はじきにぜひ読んでみたい。

『ブレードランナー証言録』感想

 

 映画『ブレードランナー』を見たことがある。暗い画面、刑事ものの雰囲気、カオティックな街並み、追い追われるスリラー、主人公デッカードを追い詰めたロイ・バティが突如詩的な遺言を残すシーン、これらがすべてフィクションの世界観に奥行きを持たせていて没入感の高い作品だった。白い鳩が飛んだりドローンみたいな車が飛んでいたり、高層ビル群の路地裏でチェイスしたり、発表年が後に当たる作品で見た演出も(自分にとっては)発見だった。

 自分はSFや映像・コミックの歴史を全然知らないので、1章の冒頭で「フィルム・ノワール('40~'50年代のアメリカ犯罪・ハードボイルド映画のことを称する)」の要素について質問が投げかけられて、いきなり脚注を読むことになった。フィリップ・K・ディックの原作とは一部の重要な要素を除いて全然違う作品だというのも知らなかった。そもそもこの映画が複数人体制で脚本を彫琢して作り上げたとか、デザイン面でメビウスバンドデシネの影響を受けているだとか、映画好きが本質的に重視するだろうポイントが、インタビューの中で紹介されており、ディープな世界の一端を垣間見ることができた。

 続編映画『ブレードランナー 2049』について、綱渡り的に成功した作品だが原作の猥雑さが失われている、といったポール・M・サモンのインタビューが、なるほど続き物の映像作品にはそういう楽しみ方があるのか、と感心した。「いろいろなバージョンがあるがファイナルカットがいい」というのも、同じ映画で違うカットの版を意識して見る習慣がなかったので、それも今後観る前にチェックしてみたい。

 

 アニメーション続編『ブレードランナー ブラックロータス』を手掛ける渡辺監督のインタビューでは、『ブレードランナー ブラックアウト 2022』や『アニマトリックス』で「金は出すが口も出す」ハリウッドとの仕事の苦労が語られている。インタビュー後の追記で『ブラックロータス』が2019年秋公開を目指し製作開始したとあるが、検索するとCGの職種募集が2019年の4, 5月に行われていた以上の情報が表に出ていないあたり、今回もきっと脚本の折衝、厳格な秘密保持があろうことを思った。いつかはわからないが楽しみにしたい。ネット配信が予定されているが、日本での展開予定は未定らしく、Netflixで出るなら今度こそ登録しようか悩ましい。いや、特定の作品を観たいだけの人にとっては、割高・ディレイがあってもAmazonレンタルで十分か? Netflixについては以下の記事を見ると、Netflixもハリウッドのように口も出すようになり、Netflix発の大規模な作品が散見されて、それらの制作により人材の育成の基盤が見込まれるところまでは、既定路線なのかなと思われた。ネット配信の利用規模が拡大傾向にあるのに対して、併存する映画・テレビが縮小傾向にあるのは事実であるようだが、どこで止まるのかを判断する材料はなさそうだ。

 

Netflixやテレビなど、直近で見かけた記事)

Netflix版“攻殻機動隊”の可能性から「アニメ製作委員会問題」まで:プロダクション ・アイジー石川社長インタビュー | BUSINESS INSIDER JAPAN

「あの事件でスピルバーグは過去の遺物になった」押井守監督が感じた“ハリウッドの破壊者”の限界 | 文春オンライン

「日本人とテレビ 2015」調査 結果の概要:https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20150707_1.pdf

現在のインターネット動画の利用実態を探る|NHK放送文化研究所