蝶々と戦車

 ヘミングウェイ がスペイン内戦で体験した、くだらない理由で命を落とした男を目撃した場面を描写した短編。物騒な世相のなか、酒に酔った男が結婚式の余興のための水鉄砲をバーの店員にかけ続け、客の中にいた軍人が放った銃弾に斃れる。スペイン人は、あれは悲劇だった、まるで蝶々と戦車だ、短編を書くならタイトルはそうつけてくれ、と著者に語ったが、ヘミングウェイはあまりいい反応をしない(しかし作品になっている)。

 内戦状態にある、強権政治の国にいる者の中に、武器を持った人間には通じない過ぎた悪ふざけをやって、命を落とす者があることは、報道を通して知ることができる。日本国内ではそこまで極端な悲劇が起こることは少ないが、違法行為の露見などで、死ぬことはなくても大きな損失を被ることがある。

 蝶々の知覚と行動原理で、戦車と砲弾の世界に迷い込んでしまうことで、これまでの世界観から言って理不尽な打撃を受けてしまう。このギャップに対する反応は、蝶々が知る限りの防衛術である。ひらひらと飛び去ろうとする蝶々は、戦車にとって目障りな存在であり続ける。戦車に見過ごされるための行動は、蝶々の世界理解の外にある。それゆえ、蝶々は気の短い戦車に轢き殺されることがある。

楽曲「うっせぇわ」:考えたこと

 歌詞も印象的、見かけた図解の要約(※)なども印象的だったので、自分が感じたこと・考えたことを書く。

 

要旨

 暗黙のルール・マナー、それらを押し付ける・無思慮に追従する凡庸な人間はムカつくし、うるさい。

 

歌の感想:聞き手への影響の可能性

 若く才能が前面に出ている。ロックやラップよりは静かな反体制のメッセージ。作曲者は今後、世代を緩く結束させる力があったり、若者が社会の力を及ぼすうえで貴重なメッセンジャーになったりするのかもしれない。

 うるさい大人に対しては言葉より音楽の「うっせぇわ」のほうが、効果があろう。言いづらいことを言っており、書き手と聞き手が封殺されていないことが前提だが、大胆さにも才能がある。

 聞き手は、大人をこき下ろしてもよいことに新たに気づくだけでも価値はあるし、従うことが苦痛なものは避ければよいと背中を押してもらう者もいるだろう。

 中には、曲中に「自分も大概だけど」とあることを気にしない、無反省に自我を突き通す聞き手もいるだろう。この歌を歌う人たちの間にもまた、暗黙のルール・マナーが存在して、多数派に受け入れられないこともあり得る。しかしそれも才能、環境、運否天賦であまり気にせずに済んだりもする。

 

うるさくない状態をいかに達成するか

 仮にある人にとって、十分にうるさくない世の中を仮定する。以下のような状況下であれば、うるさくないかもしれない。

  1. ルール・マナーが存在するならば、信条に基づいて採択の可否について、暗黙ではなく明示的に求められる。
  2. ルール・マナーは存在しない。
  3. 押し付ける・追従することをサボタージュする。
  4. 言葉の銃を撃つ、才能を見せつけるなどして、黙らせる。
  5. ルール・マナーを自分に都合の良いよう作り変える・読み替える。

 1.と 2.は、その混在状態である(ルール・マナーはそれぞれ、明示的に存在するか、なくなる)としても、考えがたい。どこまでも明示的なルールに帰着される過度な秩序も、野蛮な無秩序もありえない。

 主張に賛同する者の多くにとって現実路線なのが、3.だろう。ムカつくことに余計な体力を消費したくない。

 4.は、芸術・スポーツ・学問の分野が例示できる。実際には有名人の外野はうるさくて、信念を持ち、結果を出している人間について、妬みから愚かにも後ろ指を指してしまう人間がいる。そこで振りかざされるのはやはり暗黙のルール・マナーである。

 

歌が表明する闘争的姿勢について

 歌から解釈ができる暗黙のルール・マナーに対する態度は、(暗黙のルール・マナーの漠然とした否定から仮想の状態としての1.や2.も含むとして)4.までかもしれないが、言葉の銃の射程が長ければ、5.のように、行動を介して規範に働きかけるのと同様の強い社会への要請になるのかもしれない。 

 しかし言葉の銃を「頭に突きつける」比喩からして、特定の相手を黙らせるところまでが歌の主張であろうかと思う。この特定の相手に行動変容は望まれない。あくまでも敵対する者との闘争することを歌は表明している。

 歌い手と聞き手は、秩序への指向性のない場所へ、弱い立場で生きている。

 

 ※ 参考

 

『村上春樹は、むずかしい』少し読み進めた

 村上春樹を題材にした評論を昼前に40分読み進めた。ノルウェイの森の主人公像は村上作品中に他に類がないという。漱石の『門』を引き合いに出して日本文学の伝統に位置付けたりしていたが、この画期性についてはよくわからなかった。初期の作品は個の世界、中期の作品は対の関係の世界、後期の作品は父子のような上下の関係の世界が通底するテーマになっている、らしい。

 

 社会における共通のモラルの価値が希薄になったとき、人気のキャラクター像も熱血、努力家から天才肌、内面に降りてゆく人物に変わった世相を、巨人の星あしたのジョーのライバル人気や、AKIRAの鉄男の内面に焦点をあてる作品性、攻殻機動隊エヴァンゲリオンに連なる作品も同様の傾向、と軽く触れていた。歳のいった学者が岩波新書で真面目にそれらを出すと、おっ、となる。文学批評なのに。

 そこで筆者の知識のそもそもの幅の広さについて考える。たしか元は東大フランス文学とかの専攻だったはず。私はほかに1冊しか読んだことがない評論家だが、あらゆる高度な専門家がそうであるように、この評者が深い知識のある人物だと思っていて、それはなんというか、単なる語彙についてももちろん、言い回しがすっきりしている(国語の評論の課題にするには読み易すぎ?)とか、「こういう概念があって…」というのを平気でいろんなところから持ってくる感じが文章から読み取れる。明らかに万巻の書に通暁しているよな、知識の質も量も自分とは懸絶してるよな、ということを感じる。果てしなく体系だっている。

 サブカルチャーの枝葉末節は体系だってなくても、代表作は社会の趨勢との共通点を見出しうるし、文学や社会のような批評対象と連続的に(!)語ることができるのだな、と感じた。

 

 共通のモラルの希薄の話にもどると、殻にこもらず社会に戻れ、というメッセージの作品も同時期の他作家にはありながら、自分の中でのルールを、モラルと同様に守ることが大事なんだ(そういう規範意識を格率と呼ぶらしい)、という人物が、作品初期の主人公として肯定的に描かれている。中期に入るとそういう人物が虚無的に、あるいは留まった水の腐るような人物として描かれるように変わった。(という要旨だと思う)

 これについて、コミュニティの論理にどっぷり浸かっているのも全部関わりを断つのも行き詰まる様が描かれている、ということだと思うが、それなら気になる。登場人物が何に困り、どう反応するかを読んでみたいかもな、と思う。私は勝手に、村上春樹作品の主人公を、自分の趣味性を大事にする反面、自分の趣味に合わない人に興味のない人物であると決め付けているが、実際は、アメリカ若者文化が好きな主人公に読者の私の趣味が合わず、彼らに興味を持てず、ページを前に進められなかったりする。しかし、趣味は違えど社会にも自分で考えた規律にも行き詰まっているのなら、そこは自分の共感しうるポイントだな、と考えた。

 この数十年、通信などの技術に革新があって、企業は明らかに海外との競合の機会に恵まれてゆくようになっている。技術が拮抗するので将来像、メッセージ性、物語がないと消費者に受容されない。宗教じみてみえる流行だろうとも、ビジネスの先端だったら追いかけなければ、人材はその先端分野に集まっている、追いつけない組織が斜陽化する……中高年代のコミュニティの中での長い経験が役に立ってないんなら、若者が会社を辞めたり転職したりしがちなのも組織の規範ではなく格率に従ったんだと言えようか(しかし彼らも、どこかでは社会と折り合いをつける葛藤の機会がありうるし、信念を強く持つのは大変だ)。

読書感想断片『村上春樹は、むずかしい』

(昼に1時間だけ読み進めた。)

 戦後文学が文学の根幹としていた否定性を否定する取り組みが村上春樹の作品の革新であったが、芥川賞選考委員はそれを正当に評価する機会を得ぬまま、村上春樹芥川賞の選考対象となる短編を書くのをやめ、専業作家として長編のみの執筆をするようになった、ということが書いてあったと思う。

 学生運動を時代背景に置くなど、時代に対する応答としての側面は古い作品を読む上で参考になるし、そうした視座がないと作品世界の登場人物たちの価値観と水が合わずそれまでとならずすむ、かもしれない。長編小説に対する情熱はかなり低いが……

 うまい、やりたい、ナントカ(忘れた)、といった貧しかったり負けたりした日本の過去を顧みない直接な欲求を肯定的にとらえる、音楽の流行にもそれが表れて、サザンがその急先鋒だった、村上春樹はそこから進んで失われゆくものへの悲哀を現代の消費社会的、アイコニックな装いで覆って表現した、らしい。近現代文学の評論に、こういう言葉が自在に出てくるのは面白い。70年台のことだから40年経っていて、歴史の論を聞くようにだいたい納得できる気がするが、これ以上時代の近い作品を論ずるのは至難と思うので、そういう意味で本の後半は少し気になっている。

 あと、これを読んで枯木灘を買った。本屋に偶然フェアで並んでいたので。もう今後卸したての文庫で買う機会のないタイトルに思えた。新書の記述の中で、中上健次が両村上に劣らない重要な作家だとかより、村上龍村上春樹に読むのを勧めて、村上龍の作品のゲラを読んだのと合わせて、自分の才能の不足に落ち込んだ、というのが印象に残った。こういう作品外の話ばっかりに刺激を受けてしまっている。

今朝見た夢20201103

変な夢を見た。虜囚としてフランス料理店に長期滞在し、丁稚奉公と広い施設をうろつく以外にやることもなく、1冊の文庫本を繰り返し繰り返し読むというものだった。読んでいたのは先の大戦の中篇戦記のほとんど終わりの数十ページで、白旗を上げても敵が応ぜず陣地を出られないという場面だった。

散歩メモ20200524

 ここ数週間、あるクイズ団体の動画を毎晩観た。彼らの知っていることへの純粋な敬意、知っていることの多様性に好感を持った。いろいろな話題へ飛んで、笑いに満ちている雰囲気がなにか、懐かしいような感じがした。

 彼らの取り組みが素晴らしく感じたのは、次のような印象を受けたからだった。つまり、知らないことは恥ではないこと、知ること自体に競争性・娯楽性があること、知恵は自分で発明できると考えがちだが・それすら知識で乗り越える場面があること、入り口に立つ知識すらなければ・立ち戻る基礎・命綱のフックもかからずに山に登ることになること、などなど。

 彼らが受験生へ向けた言葉にある、学ぶことは夢のための手段であるべきで、目標を達成したら得られることを思い描くことがスタートラインになっていて、小手先の技術でも駆使していくべきだ、などというのは、まったくその通りだと思う。

 別の学校、別の社会へ行くたびに離れてしまってきたが、専門家の専門知にだけ価値があるのではなくて、逆に学問は役に立たないのでもなくて、浅くだろうが知ること・知っていること自体にも価値があって、何番でもいいが・目指すなら一番がもっといい、ということは忘れても思い出すようにしたい。

 長い人生どこかで悲しいことがあるだろうけれど、そればかりにとらわれずに、ふたたび、知的な取り組みを面白がって、夢中になってやりたいものだ。

『戦争と平和』第3部冒頭まで・ピエールとアンドレイ

 ピエールは序盤から主人公格だと感じさせる。冒頭のアンナ・パーヴロヴナ・シェーレルの夜会ではナポレオン・ボナパルトの肩を持ちアンガン公暗殺も仕方ないと言って、(舞台は1805年のロシア、いま調べるとアウステルリッツの戦いという仏軍が露軍を破った戦いの前、開戦直前期から話は始まっているが、)ピエールは談じていた貴族たちに(ナポレオンの人道的に称揚しがたい点をそれぞれに指摘することで)その政治姿勢を非難される。彼がはにかんであなたがたを不愉快にさせなかったわけじゃない、というような顔をする、仲の良いアンドレイ若公爵にフォローされる、その間著者はピエールに対して貴族社会の空気の読めない欠点を挙げながら、人の好さ、きょろきょろとペテルブルグの上流たちの様子に興味をもっている様子などが好感をもって描写されていて、この時点ではただの金持ち貴族の庶子でしかなく、地位も低く、外国留学から帰ったばかりなのに、そうした描写に紙幅を割いているのはなぜ? ということが引っかかったまま、読ませていく。引っかかった所の理由・彼の背景があとから描写されてゆくところに、彼が物語の中心にいること、伏線があとへ引き継がれてゆくこと、彼の冒頭の人格描写が当初の彼の確かな人格で、それを背景にした行動原理が行動だけ描写された中に見出され、きっとすこしずつ行動原理が修正されてゆくことが描かれてゆくに違いないと思わされる。

 ピエールとアンドレイに対して、他の夜会の客たちは内面より外面の描写に紙幅が割かれ、彼らの振る舞いは役割は微妙に違えど、同じモードに則って洗練されている、しかし欠点もある、といった淡々とした描写の印象を持つ。(とはいえ、夜会でのエレンは服や装飾品だけでなく、自分の美しさを弱めようとしてもそれができないというくらいの美しさを輝かせていることについてしっかり描かれている。退屈そうに話を聞いている様子とともに。こういう一辺倒ではないところの描写に、貴族社会に対して影響を及ぼすエレンの抜きんでた存在感が強調されている。)

 現代人から見て、やがてロシアでも打ち滅ぼされる存在である貴族、彼らが古臭い通念で内輪の生活にひたすら時間を使って、自分たちの地位のために都合のいい噂話に溜飲を下げていて、アンドレイもその生活がばかばかしく、友人のピエールにも貴族社会には入るな、自分はこの生活がうんざりだから出征するだとか打ち明け話やアドバイスをする。

 ピエールはアンドレイを認めている。6節でアンドレイは自分を無能で、女性に失望していて、生活が損なわれているというが、ピエールから見ると誰に対しても落ち着き払った態度、稀な記憶力、広い知識、働いたり学んだりする力があり、ピエールにある空想的な思索を弄する傾向がアンドレイには欠けているが、欠点ではなく力だと見える。逆にアンドレイは貴族社会の人たちに退屈している反面、ピエールの理想や思想に対して無邪気で正直で、がんじがらめの社会のルールから外れているところを美点だと認めているように見える。

 1章の終わりでアンドレイは妻に対してありえないくらい冷たい態度を取っているように見える、よほどのことを妻に対して思っている、あるいはどうでもよくなってしまっている、そういう欠点があっても、アンドレイは端正過ぎるくらいの貴公子として初登場時に描かれていて、気難し気なところがあって、陸軍大将をかつて務めた厳格な父公爵から遠方の田舎で教育を受けて、少年時代には貴族のコミュニティから離れた所にいて、その反動で妻に失望しているところがあって、そうありながらも父公爵の几帳面過ぎるところを笑えるくらいには父を愛しており、等々、彼の人格を形づくるさまざまな要素が彼の登場して顔の筋肉を動かすたびに浮かび上がってくる。アンドレイもまた、陰影の深い主人公格である。

 

 ピエールは1部の時点で、さまざまな将来の可能性を用意された青年である。アンドレイのような厳格な環境で問題なく育ったエリートから見て、伯父が金持ちの公爵で本人がその気に入った庶子であるがために十分な教育を受けることができ・将来の選択肢も外に開かれているのだからしっかりやるんだと、言われるべき立場にある。それでいて自身に選択権のある青年だからか、悪友たちとつるむことをやめられず、アンドレイに彼らとの夜遊びをやめるといった当夜に、金も縁故もないが酒と賭博にめっぽう強いドーロホフの荒くれっぷりに憧れて真似して、とうとう泥酔して仲間たちと警官を同宿の貴族が飼っている熊と背中合わせに縛って川に投げ込むばかばかしい悪事をはたらく。

 ベズウーホフ伯爵が実は庶子の善良なピエールに大半の遺産を残すよう、皇帝陛下に例外をお願いしていたことが貴族コミュニティの中で徐々に噂になってゆき、当人が事態を明確に把握できぬまま、ナターシャの名の祝いの日で飲酒した足で伯爵を看取り、突然ピエールの親類で世話をしていたワシーリイ公爵以外の者たちもピエールを好人物だと褒めるようになる、遺産で係争していたベズウーホフ伯爵の姪たちの態度もガラッと変わる。人間関係で、劇的に相互の関係が変わったときの微妙に態度を決めかねている感じが、そうした経験のない私には今まで見たことのない不思議な光景として見ることができる。

 

 これはきっとこの小説の全編について言えることだと思うが、心理描写のしっかりなされる・著者も読者も感情移入をすることになる・主人公格の人物だけにユニークな人格が与えられるのではなくて、途中で数えるのをあきらめざるを得ない登場人物の端々まで、人格的外観的美点欠点、行動的思想的傾向、それらが彼の属する社会に対して及ぼす影響や役割が与えられていて、社会の構成員が互いに感じる好悪は全く一様でなく、たとえばときに聖人めいた顔をすることのあるアンドレイの妹が委縮した時醜い顔をするだとか、アル中の猟銃中隊長が揺るぎなく猛烈な勇猛を発揮するだとか、とにかく多様だと感じる。多様ながら確固な信念や立ち振る舞いをそれぞれに持っていて、かつ確信を持って彼らの衣装や通念や習慣が描かれているために、私がロシアを知らずとも、物語の人物は確かに19世紀初頭のロシアに生きていると謎に確信させる説得力がある。

 

 最初の2部をじっくり読み進めていたが3部に入った途端、1週間くらい間が空いた。GW中は読み進めることができてと言うのが一番だが、もうひとつ、ピエールについての話に気が散ってしまって読み進めるのが難しいことを感じてしまっている、どんどん読み進めることができないでいる。読み進めたいのにそうなっているのがばかばかしいことだと思うが、ピエールがワシーリイ公爵の美しい娘エレンと結婚することを避けたいものだと考えながら、年の近い裕福な公爵と美しい公爵令嬢と言う立場からそれを避けがたいものだとも感じ取り、ついには避けようのないものだと確信するあたりで、彼の気恥ずかしさや慢心へ私は共感性羞恥を感じていて、アンドレイがリーザに失望したようにエレンに失望する日がきたり(トルストイの個人史では、幸福な結婚生活があったからこそ本作品やアンナ・カレーニナが書けたとあるし、ピエールが異性に夢中になってゆくさまを幸せなものとして描いていることに疑いはないが、アンドレイの妹は手紙の中で突然富豪になったピエールに来たるべきさまざまな苦難に同情していて、不穏に感じる。)、アンドレイが敗戦の将となったり、主人公格たちにこの先恐ろしい人生の困難が待ち受けていることを感じているからだろう。この先も下手に寝転がって読むことはできなさそうだ。