『村上春樹は、むずかしい』少し読み進めた

 村上春樹を題材にした評論を昼前に40分読み進めた。ノルウェイの森の主人公像は村上作品中に他に類がないという。漱石の『門』を引き合いに出して日本文学の伝統に位置付けたりしていたが、この画期性についてはよくわからなかった。初期の作品は個の世界、中期の作品は対の関係の世界、後期の作品は父子のような上下の関係の世界が通底するテーマになっている、らしい。

 

 社会における共通のモラルの価値が希薄になったとき、人気のキャラクター像も熱血、努力家から天才肌、内面に降りてゆく人物に変わった世相を、巨人の星あしたのジョーのライバル人気や、AKIRAの鉄男の内面に焦点をあてる作品性、攻殻機動隊エヴァンゲリオンに連なる作品も同様の傾向、と軽く触れていた。歳のいった学者が岩波新書で真面目にそれらを出すと、おっ、となる。文学批評なのに。

 そこで筆者の知識のそもそもの幅の広さについて考える。たしか元は東大フランス文学とかの専攻だったはず。私はほかに1冊しか読んだことがない評論家だが、あらゆる高度な専門家がそうであるように、この評者が深い知識のある人物だと思っていて、それはなんというか、単なる語彙についてももちろん、言い回しがすっきりしている(国語の評論の課題にするには読み易すぎ?)とか、「こういう概念があって…」というのを平気でいろんなところから持ってくる感じが文章から読み取れる。明らかに万巻の書に通暁しているよな、知識の質も量も自分とは懸絶してるよな、ということを感じる。果てしなく体系だっている。

 サブカルチャーの枝葉末節は体系だってなくても、代表作は社会の趨勢との共通点を見出しうるし、文学や社会のような批評対象と連続的に(!)語ることができるのだな、と感じた。

 

 共通のモラルの希薄の話にもどると、殻にこもらず社会に戻れ、というメッセージの作品も同時期の他作家にはありながら、自分の中でのルールを、モラルと同様に守ることが大事なんだ(そういう規範意識を格率と呼ぶらしい)、という人物が、作品初期の主人公として肯定的に描かれている。中期に入るとそういう人物が虚無的に、あるいは留まった水の腐るような人物として描かれるように変わった。(という要旨だと思う)

 これについて、コミュニティの論理にどっぷり浸かっているのも全部関わりを断つのも行き詰まる様が描かれている、ということだと思うが、それなら気になる。登場人物が何に困り、どう反応するかを読んでみたいかもな、と思う。私は勝手に、村上春樹作品の主人公を、自分の趣味性を大事にする反面、自分の趣味に合わない人に興味のない人物であると決め付けているが、実際は、アメリカ若者文化が好きな主人公に読者の私の趣味が合わず、彼らに興味を持てず、ページを前に進められなかったりする。しかし、趣味は違えど社会にも自分で考えた規律にも行き詰まっているのなら、そこは自分の共感しうるポイントだな、と考えた。

 この数十年、通信などの技術に革新があって、企業は明らかに海外との競合の機会に恵まれてゆくようになっている。技術が拮抗するので将来像、メッセージ性、物語がないと消費者に受容されない。宗教じみてみえる流行だろうとも、ビジネスの先端だったら追いかけなければ、人材はその先端分野に集まっている、追いつけない組織が斜陽化する……中高年代のコミュニティの中での長い経験が役に立ってないんなら、若者が会社を辞めたり転職したりしがちなのも組織の規範ではなく格率に従ったんだと言えようか(しかし彼らも、どこかでは社会と折り合いをつける葛藤の機会がありうるし、信念を強く持つのは大変だ)。