『フランス文学講義 言葉とイメージをめぐる12章』メモ・感想

 

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

フランス文学講義 - 言葉とイメージをめぐる12章 (中公新書)

 

メモ

  明確な色や形の存在しない、文字を通したイメージのために重要なのは、人が何を見ているかよりも、見ようとする眼差しが重要であり、フランス近代文学はその眼差し、つまり個人を通してものが見えてくる過程を徹底して分析するという遺産を残したという。12章にわたる作品とそれが表現しようとしたイメージの紹介を材料に、読者は物語を通して「見ている」ものは何か、書かれているものは何かを考えさせられる。(はじめに)

 王侯貴族や伝説上の人物ではなくて、自分と同じような人物に向って語りかけようとする小説の目論見は、フランスにおいてはジャン・ジャック・ルソーが『告白録』で後に追随する者もいないだろうと書いたように近代において新たな思潮だった。ルソーは、現実性に対して、出来事を見詰め、語る人間の側に宿っているという新しい見方を確立した。その現実性は、人間の生来の環境や変転といった一挙に見渡せない時間の厚みとともに示された。この時間のモチーフを劇的に展開したのがロラン夫人の『回想録』である。フランス革命の獄中で、生命の失われる瞬間に、一人の人間がたどった道のりを思い出して再現する、このロラン夫人が身を置いたフレームが、作品の細部に生気を吹き込んでいる。(1章)

 20世紀に下る中で人間が自律的であるという認識が解体されて、それでもある人物の主観を通してみる姿勢は全ては失われず、ある部分は残った。変わらなかった部分は、人は自分の目で世界を発見してゆくしかないという平凡な事実である。知覚のあり方を変えた近代のテクノロジーは、20世紀の人間にとっての現実の土壌となって、メディア、移動手段、生活の形態、あらゆる形の媒体を生み出し、記号の集積によってイメージ空間に入り込むための扉の鍵となった。……その中でも写真は、ある人物の主観から見て、どこまでも掘り下げることのできる井戸のようなものであり、見えないものを見えるようにする道筋をつくるものとして小説や自伝に新たな道を開いた。(第3部冒頭)

感想

 「はじめに」の気になる表現として、以下の文がある。

ある人間の主観を通して外部を見つめるという姿勢は、相対化され、すでに終わった<文学>の問題と簡単に片づけられてしまうかもしれない。……そこに現代につながるものが本当に何もないと言い切れるのだろうか。

言葉とイメージとの関係は、どれほど時代が変わっても、絶え間なく再編され、新たな道筋が探られる、創作の源泉のひとつなのだ。

 自ら世界を発見してゆくしかない、ということは20世紀に残った文学や文芸の鍵であり続けていることは第3部冒頭で述べられていた。これは次のように言えるだろう。つまり、今世に出つつある書籍においても、言葉とイメージとの関係は絶え間なく再編されているが、たいていの場合、ある人間の主観を通して外部を見つめるという姿勢は、相対化され、現代に新たな知的枠組みを生み出すものとは考えられていない。

 しかし文学に詳しくない私には近代文学が解明してきた言葉とイメージの関係は、目新しく感じられ、価値のあるものであるように思われる。同時代の文学として重視される価値あるものが、その時代が抱える社会情勢を背景にして見出されることはもちろん分かっているものの、本書に紹介されたような古い文章に触れることで自分には未知なる言葉とイメージの関係を会得したときの充実感は、他のものに変えがたい。つまり、近代文学と同じ枠組みの文学作品が価値のあるものとして世に出ることはなくても、言葉とイメージの関係そのもの(という言葉と、イメージの関係)が本書で再編されたことは、私にとって大きな価値があった。

 近代のテクノロジーを考えてみて、文字ではない媒体が生み出すイメージの影響が非常に強くなったために、閉じた生活圏の中のイメージは容易に共有することが出来る代わりに、その外にある新たな言葉とイメージとの関係を見出すのは難しくなっているのではないかということも考えた。