『行動経済学の使い方』感想

行動経済学の使い方 (岩波新書)

行動経済学の使い方 (岩波新書)

 

  行動経済学は、人間の合理的な意思決定が予測可能なずれをもつことを明らかにする学問である。それが人類一般の法則であるか、文化・教育によるものであるかといった留保条件まで含めて、実証研究を通して明らかにされるにと留まらず、その知見を活かして人間の意思決定をより合理的なものにする制度の仕組みを作る、という段階までこの学問の知見は高められている。

 本書は「金銭的なインセンティブや罰則付きの規制を使わないで、行動経済学的特性を用いて人々の行動をよりよいものにすること」(「はじめに」より)であるナッジの使い方、その前提となる行動経済学の基礎知識について一般向けに解説されたものである。

 本書の書評はさまざまな新聞・ビジネス書で扱われている。

行動経済学の使い方 - Togetter

今週の本棚:伊東光晴・評 『行動経済学の使い方』=大竹文雄・著 - 毎日新聞

 

 1章は手短に行動経済学の前提を順々に概説しているために、教科書的な緊張感が強い。

 2章はそれを役立てるナッジとは何か? ナッジのつくりかたは? 実際例は? という説明であり、ここから既に世に出た行動経済学の類書が中心的に扱っていないナッジの応用例に入るので注意して読んだ。バイアスを生じるボトルネックは何かによって、ナッジの設計を変える指針や、リストの項目を満たすように設計できているかチェックするなど、ガイドに従えば知見が活かせるように、という工夫がなされており、学者はそういう研究もするのだなあ、と驚いた。提案されているチェックリストとして紹介されているものは、チェック項目の頭文字をとってNudges, EAST, MINDSPACEなど、覚えやすい工夫もまたナッジ的なのかなと思う。

 2章3節のナッジの実際例(pp.65-77)は面白い。せっかく訓練を行ってもいざ警報時に「これくらいの雨なら平気」(正常性バイアス)と考えて多くの人が避難しないバイアスの実例、子どもが率先して逃げたのを見て避難を決断するバイアス解消の実例、「避難しない者はマジックで腕に国民保険番号を書け」と言ったら高い避難率を実現した米国の実例など、何十年に一度に備えて人々が行う意思決定にも応用可能であるのだなあと、この学問ならではの威力を感じられた。また、老人が避難時に環境の変化をストレスに亡くなる例があるように、災害の非常時における当事者の判断も尊重されるべきで、災害時に非難しない者にマジックで腕に住所氏名を書かせるナッジは、そうした配慮をクリアしたうえで実現する必要がありそうだと感じた。

 3~6章は、仕事一般に対するナッジの例やナッジの妥当性を検証した研究の紹介がにわたって行われる。3章のピア効果、2人組のレジ打ちのデータを元に示された「生産性高い同僚から見られている場合は生産性が向上する」、子どもの水泳の大会決勝データを元に示された「横レーンを泳ぐ遅い選手が見える場合、横に誰もいないより速く泳げる」といった実証結果は、制度設計者に限らず全読者に示唆する所があると感じた。

 6章2節「目標と行動のギャップを埋める」も全読者にとり読みどころで、「実行計画を書き出すと効率性が高まる」「先延ばし行動をする性質を加味すると、まとめてやるより日々の習慣に組み込んだ方が、目標の達成可能性は高まる」「目標の時間的視野を狭くすることで、損の確定を恐れてリスクを取り過ぎるのを防ぎうる」と述べている。この記載はやや理論的な4章「先延ばし行動」に対して、より先延ばし行動を解消する「使い方」に近い内容と思う。

 7章では医療・健康への応用、8章では公共政策への応用が語られる。これもまた『使い方』の説明で、各分野の制度設計者、医局や官僚などが中心的な想定読者となっているだろう。

 付録の「文献解題」はこの分野の大学のゼミの初回の課題図書になりそう。奥付に参考文献だけでなく背景研究のアブストがついているのは、参照文献へのハードルを感じる初学者に対して非常に丁寧であると思う。