『浄土真宗とは何か』(中公新書)

浄土真宗とは何か - 親鸞の教えとその系譜 (中公新書)

浄土真宗とは何か - 親鸞の教えとその系譜 (中公新書)

 

 親鸞は「自力」成仏を否定し、「他力」成仏を目指すべきであるという。すなわち信心は自身で呪術や行(ぎょう)により深め得るものとは考えず、末法の世で悟りの開けない凡夫に阿弥陀仏が与えるものと考え、念仏を唱え阿弥陀仏を信じなさい、と述べている。法然もまた念仏をひたすらに唱えることが大事だとは言うが、親鸞ほど徹底していない。

 例えば、法然は死に装束や仏陀の入滅に倣った儀式である「臨終行儀」に肯定的で、

阿弥陀仏の本願を頼みにして念仏を申す者のもとには、必ず来迎があるとし、来迎があるから臨終正念になることができる(p.89)

としているのに対し、親鸞は「来迎は行によって往生しようとする者のためのもの」と考え、これは自分の努力により往生しようという行為である、として否定している。

 しかし親鸞が生きた時代には平安浄土教や呪術信仰が大勢を占めており、最も近くで教えを受けた者たちですら「他力」の教えからブレる言行があった。妻の恵信尼は臨終行儀を熱心に五輪塔を建立する、子の善鸞は巫覡とともに東国で呪符と祈祷で現世利益を与えて回る。正当な継承者として門主をなした孫・ひ孫・玄孫にあたる如信覚如・存覚もまた、符術による病気治療を否定しない、神の名を歌に織り込む、阿弥陀仏以外の神仏を祀る社寺へ参るといった矛盾がある。

 

 以上のように教義に対する後継者自身の曖昧な線引き、葛藤、あるいはダブルスタンダードが本書の浄土真宗を語る主眼となっている。あるいは親鸞自身が誤解を招く表現を残したこと、うわ言で念仏を唱えるように無意識化では「自力」を拒絶しきれていないことも紹介している。これについて、理想化された存在としての親鸞は信仰に取って必要だが、人間らしい葛藤する親鸞もまた魅力的であるという。

 

 本書は他にも巨大教団化を成功した蓮如や東西分裂、近代から見た浄土真宗といった興味深いことも終盤に触れている。コアの記述は著者が研究されて解明された部分であり、伝統的解釈を再考するものとして宗派からも評価を得ていることが後書きに記されている。中世日本の知識人の一角を占めて、特有の世界観や言葉を多く含み、現代人とは違う時間感覚で思索が積み重ねられたことを思うと、仏教に関連する古い書物は今でも、(批判的であれ)多くのものを読み取れる、再発見/新発見される、日本語の読み物であるのだなと認識させられた。

 それからふと、本書の内容から離れて、教義の曖昧さはともあれ、彼ら宗教者の布教して巡り、信仰を集める力が不思議に感じた。仏道を究めたものが、教えを説くという構図について、信仰を他に人間の営みにあったろうかと感じた。大人が子どもを、教官が学生を、その幸福を願って生活の戒律を説き、自身実践して見せるということが、どれほどあろうかと思った。そういう年長者を知っているし、多くいると信じたいところだ。あるいは大人を導いてそう振舞わしめる仕組みとして何があろうか? そういった仕組みが効かない世の中は、仏教用語が言う末法、教えが残って悟る者の居ない世の中に向かうのだろうかと考えた。しかし人を惹きつける人は世の中から消えず、魅力的な人々が社会を導くことは変わらないだろう。今後、日本や他国各国を知る際は、魅力的に映る人々のことを着目してみたい。それから、教えはともかく魅力ある人へそうした魅力があるというメッセージを伝えることも、伝えた相手をなにかしらについて導く者たらしめるだろうかなどと思った。