入試改革についての日経記事感想

記事論旨1

 共通一次試験の改革において、高い理念と入試の技術論が空しく衝突し、①「受験秀才」に代わる人材の育成、②全入時代に学力試験を経ない進学者が増えることで大学入試による教育の質の担保能力の低下、の2点の課題は正面から取り組まれなかった。結果、推進・反対の垣根を越えて「中途半端な内容」と評価されている。入試時期をずらすなど、現行の枠組みを変える抜本的な改革が望まれる。小手先の改革の被害は子どもたちが受ける。

(以下は電子版会員記事。無料会員でも、有料会員限定の「鍵」マーク付き記事を月間10本まで閲覧できる。)

www.nikkei.com

感想1

 1点を争う共通試験をアルバイトに採点させる仕組みに非難が集まった。1点刻みで機械的に評価されるよりも、記述式や人間性を重視すべきだという反論にも、採点者の裁量で人生がされる方が嫌だ、というさらなる意見がついた。確かに、共通試験の影響力が落ちて、一般大学が自己裁量で採点するようにしたら不公正の温床になるだろう。一芸を持っている者を評価する仕組みが悪用される大規模な例は隣国に見ることができる。

gigazine.net

 共通試験の枠組みは、より低コストに、より信頼性の低いものになっていることは間違いないが、記述式の採点者が無作為に選ばれたアルバイトであるならば、共通試験そのものの仕組みが、不正につながることはなさそうだ。受験生の視点では、アルバイトにも読める字で書き、誤解の少ない表現を選ぶ工夫が求められる。明らかに採点者のケアレスミスや無知による減点については、その数点が多くの受験生に損害を出したならば、採点請負業者や国に対する集団訴訟を起こさねばなるまい。そうなったら、教育で商売をするなかでガメたツケ、国策で教育に出す金をケチったツケは払ってもらうことになる。

 しかし、そのような信頼性の低い1次試験は、2次試験に対して低い割合でしか評価されなくなるだろう。2次試験を取り逃した人が、どこまで1次試験による影響で不合格になったと主張できるかは、その採点配分の変動幅による。例えば足切りのラインを下げ、ミスによる数点を含めても基準に届かなかったら、切られた側は文句を言えない可能性がある(間違って加点された者が出るのならば話は別だが、そういった採点ミスは間違って減点されるより露呈することは少ないだろう)。各大学が1次共通試験は十分に緩い基準に使い、2次試験で厳格に評価するならば、裁判でどこまで勝てるかは怪しくなってくる。

追記:教育制度改革批判の上では、英語民間試験の顛末の考慮は必要。新しい教育制度を民間に任せるのは、十分な利得が得られず、制度設計するモチベーションや体力が公共セクターにないからだと思うが、英語は特に試験制度が整っていないのは、英語の運用能力認定試験は高校大学の教育を超えた一大産業になっていて、それらの関係有識者が学校教育とのギャップを埋めきれなかったからなのだろうか。

 

 細かいところで、「人工知能(AI)や第4次産業革命ソサエティー5.0などに象徴される21世紀型社会では、明治以来の「受験秀才」に代わる新たな人材の育成が求められている」という表現は、象徴する単語三つについて、真ん中の単語だけで残りの二つを包括しているんじゃ、と思ったが、考える力に対置する意味でAIを挙げており、国が何をモチーフに改革をしたかを示すためにソサエティー5.0を挙げたのだろうと思いなおし、納得した。

 また、ソサエティー5.0は狩猟(1.0)、農耕(2.0)、工業(3.0)…という社会の変化を前提に5.0と言っているのが暴論だとの批判があるが、些末だ。むしろ、目にした者にコンセプトとしてわかりやすく映る工夫として、もう少しシンプルなイラスト(ピクトグラム?)で示してはどうだったろうと思う。

 以下の埋め込みリンクの絵は、今から説明を聞かないとわからない絵であるし、リンクを開いた最初に表示される女子高生がドローンに手を伸ばしている絵はドローンのインパクトが強すぎてロボットやAIやIoTの象徴でもある(たぶん)ことに一見して気が付かないのが惜しいし、下にスクロールして出るSociety5.0の概念図はスマホとかの狭い画面に表示させるには欲張りすぎている。www.gov-online.go.jp

 その点ドイツのインダストリー4.0の資料は見る者にコンマ数秒~数秒で概念が伝わる絵だと思う。

(ドイツのインダストリー4.0の説明)

https://www.gtai.de/GTAI/Navigation/EN/Invest/Industries/Industrie-4-0/Industrie-4-0/industrie-4-0-what-is-it.html

Wikipediaの絵も出どころは知らないがわかりやすい)

ja.wikipedia.org

 

記事論旨2

 グローバル化やAIの発達など社会と経済が激変する中で、経済界は入試や高校・大学の教育に望むのは、情報系の素養や外国語力だけでなく、もっと広く、基礎的なものを考える能力や知識、いわゆるリベラルアーツ(教養)である。

www.nikkei.com

感想2

 経済・産業界が望む「考える力のある学生」を育てる理念自体は、AIをはじめとした情報技術をどう操るか、どういう枠組みに位置づけるか、という今後の人間の役割から言って別におかしくない。しかし「考える力」などという漠然とした才能は考えた結果生み出されたものからしか評価することができない。そんな漠然とした能力を誰も確実に伸ばすことができない。

 文理を超えた幅広い教養(リベラルアーツ)などはもう少し評価しやすいのではないかと思う。例えば、ハードサイエンスの素養がある、国外の多様な社会通念を知っている、芸術の歴史的経緯やら流行やらを説明できるなどすれば、広く世界のビジネスやらコミュニケーションやらに確かにつながりうるだろう。

 とはいえ、大学教官の多くは一部の学生たちを学問の深みに誘うことができても、自分の専攻する学問全体を広く学生たちに啓蒙することは、一握りにしかできないだろう。大学全入時代に、すべての大学教員が純粋に学問を追求する姿勢を守ることを、経済・産業界は許さなくなってしまったし、経済・産業界が衰退すればゆくゆくは学界に還流する資金も減るだろう。いまの制度で大学生に幅広く教養教育を学ばせることができないなら、特にそれができていない大学が改革の犠牲になることは、免れがたい。1の記事で共通1次試験の改革が中途半端になったことについては、文科省が声をかけなかった専門家が入試改革に入っても、抜本的なところでは誰かが反対して、中途半端にはなったのではないかと思う。教養教育の重視に関しても、制度的な改革圧力が高まるものと思う。

 経済・産業界でリベラルアーツを提唱している人たちも、どれほどリベラルアーツを知っているのか、ということも同時に言える。誰もがお前がやれよと言える。しかし、別に誰もわかっていなくても、理念として大事だというコンセンサスを取って、わからないなりにやっていったほうがいいと思う。

 国としては、若者がイノベーションを起こさなくて困ったら、高校・大学の教育制度を変えて、「考える力」やら小論文やら専門技術やらで一芸を重視する大学を多用につくって、その中で多様な人材が現れるのを祈るしかやることがないかもしれない。高邁な理念ばかりでバカには教えられないとは考えず、制度に組み込んで、うまくいったら出藍の誉れを皆で祝えばいい。

 

追記2:私は全ての大学が研究機関としての役割を捨て去るべきだとは思わない。副専攻の教養コースの比重を大学ごとに検討して、単位の互換ができる部分、できない部分を持たして、それでも研究の人材は確保しうる。しかしその両立は国が金の拠出を増やし、①今の教官たちの時間を捻出し、②教養科目に当たる研究者を増やさないといけない。

 一部のすでに取り組んでいる大学も手一杯であろうし、手厚い教育のできていない大学はさらなる破綻につながる。国は人材をくれくれ言っている経団連基金作らせて金をせしめるなりすべきだ。国が出すべき金については大学法人ももう少し徒党を組んだらどうか。これも儲からないとモチベーションがないだろうか。またもや大学の教育界に業者がやってきて、大学が外注する形で、人力かAIか知らん作文やらテストの採点、ビデオ講義、e-learningの作成支援バイトなどが普及するだろうか? はたまた、根本的な大学制度の改革が先か。