国木田独歩の読書メモ

 ドナルドキーンは独歩については日記が一番の作品だと言った。独歩の今のところの感想は、感傷に訴えるものがあるが、短編はスケッチ的で、長編の深い構想や生き生きとした人物が現れてくるか、今のところ想像がつかない。たとえば『武蔵野』は多角的に語っているし海外文学の引用を長めにしているバランス感覚は読者にない美観の導入のため必要と思えて納得がいくが節ごとのまとまりは強くない。『忘れえぬ人々』に至っては作中人物がスケッチだと断ってすらいる。

 しかし感情に訴えるものがある芸術的傾向には、ワーズワースへの深い傾倒が裏にあるという解説を見た。海外の作品に感化されて、日本の風景の中に美観を再構築して、独自の芸術作品を作り上げる試行錯誤があるはずだが、その跡を作品の表面からは(構成の緻密さのようには)明らかに見とることは私には難しい(私には俳句の微妙な表現の違いに美的効果の変化を見いだすことも難しい)。そういう意味で、独歩の日記を読むことに価値を見出せる。

 ともあれ、スケッチ的であるのは作品を重厚なものにはしないが良さでもあって、ここに読んだ独歩の作品は、背筋を伸ばして長時間机に向かって読まずに、酒を飲みながらでも楽しむことのできる作風であると思う。

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舟から見る無人島とも思える小島で浜辺を歩き何かを拾う名もなき人、漁師町に雑踏で誰の視線も集めず歌う琵琶法師、人気なく暗くなる山から麓へ降りたところすれ違った空車を押し謡を口ずさむ屈強な若者。わけもなく見る風景の美しさにとらわれて、忘れることができなくなる優れた詩的感性の豊かさに心を動かされた。

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孤児で快活な青年と馴染みの少女は海を渡って半島へ行く。孤児として支え合ったが生き別れて行方も知れない弟の面影を重ねて泣く少女。疑いもなく連れてゆかれて、その少女の孤独を知っても、遭遇したその日に永遠に別れる少年には直視できない。記憶が遠のくにつれて少年の頃の思い出は悲哀の詩となって存在感を増していく。

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楢林独特の風景は今に至るまで語られることのないものであると著者はいう。どこまで行っても分岐路があり迷うままに行く楽しみのある地形をしている。小金井の堤をともに散歩した朋友の手紙を引用するに、「自分で限界を定めた一種の武蔵野」に、川越、所沢、田無は入って八王子は入らないような、平野の一領域の風景にえも言われぬ共通要素の境界があるらしい。鉄道と地勢から彼らの武蔵野は南北に狭いらしいが、その面影は今なお地形に見る、点在する雑木林に見ることだろう。

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桂正作は階級の流動する時代に凡人としての人生に眺望を見て確かに実行し、かつ情を遂に捨てなかった男である。山を外して没落した家に生まれたが、旧弊を嫌い銀行勤めをやめてまで、働きながら夜学に通い、いつか自助論に感化されて発明をするのだと語っていた夢の通りに、あとあとになって電気部の技手として弟たちを養っている。彼の将来を祝福して杯をあげてほしいと語り手は言う。