意訳・翻刻『現代作家の本領』高瀬文淵

 誤字も1・2箇所あるかもしれない。意訳もわからないところは無理に訳したので正しくない部分が数か所ある。

明治文學全集 23 山田美妙・石橋忍月・高瀬文淵集

明治文學全集 23 山田美妙・石橋忍月・高瀬文淵集

 

要約

 明治の文壇はやたらと難解な文体を駆使する一部の人たちと、彼らの小説論についてゆけず失望した人たちがいるばかりで、寒々しい光景である。理由は色々あるだろうが、世間の関心は作家サロンの流行に同調しない。

 美術家には高い志、審美眼が必要なのは確かだが、明治の人々が芸術に開かれるのには百年と時間がかかり、彼らを啓蒙することが文学者の使命である。それは社会の中心的人々が芸術に理解を示すのにかかる時間であり、王朝文学の完成に千年、武家社会の文学の黄金時代は徳川は元禄の時代を待ったことから類比される。武家社会の次に来たのが、この公民一統の社会である。鎌倉の小大名たちのごとく、明治の小資本家たちには芸術で世を飾り文学を愛でる余力がまだない。普通の趣味でもモノにするのに手間がかかるのに、文学にはそれを解するに至るまでの期間・金銭を投じた教育が必要である。古文辞や中国文学のような文体で書かれた美文を彼らがただちに理解しようものか。

 また、のちに評価される文体は当時の知識人が得意としたものではなく、時世に合ったものである。漢文ひいては駢文を得意とした文人たちの時代である王朝時代の文学で今に残るのは女流の手による日記文学であり、古文漢文を書くのを得意とした者が少なくなかった武家社会の文学で、流行・発展してきたのは戯作俳諧のような新しい文体であった。諸君に国を思い公衆を思う心があるなら、文学の高みを目指し人々に理解を促す高い志を持ちながらも、ガマンして平易な文体を用いて啓蒙してほしい。そして社会は文芸者の手によって成長するという使命を全うしてもらいたい。

 意訳

 百花爛漫のごとく華やかだった明治の文学は今や秋風が立ち見渡す限り物寂しく、楓葉蘆荻の影のごとく寒げである。このまま文学は大いに寂れて社会は寒々しい天地に取り残され、世間は霜枯れの荒野に立って美文の栄華を失わねばならぬか。あれほどそれぞれに愛読された明治の小説は名残なく嵐に吹き折られて積もる雪の中に長く姿を隠さねばならぬか。物寂しい文壇では皆冬ごもりの用意をしていて、次の興隆に向けて天下取りを狙った作家が少なくなかったのを、誰が覚えていようか。

 思うに、ここ三四年世に出ている小説は、ごく一部で行われることであって、社会の多数には影響しないようである。もちろん中には才能ある作家が努力の果てにつくった賞賛に値する美文小説もなくはないが、それすら世間には顧みられない。つまり、いまの著作は欧米文学に刺激されて小説が流行しているように見えて、作家たち自身の間に留まって、わずかな若い読者が同調するばかりである。世間の関心が予想外に狭いのは、文技が拙いためか、意匠着想が浅いためか、一般読者に見る目がないためか、とにかくガラクタの中にも宝石があるのを、一緒に砕かれてしまうのは惜しいことだ。

 このいい加減な文学に続いて、小説論が盛りに論じられた。文学者たちは一時これに夢中になったが、評論・理論が明らかになるにつれて、この頃の駆け出しは息を潜め、あるいは醒めてしまった。高度な理論の持ち主はますます高高度へ向かい、詩についての見地の無かったものは驚いて地に落ちた。こうして著作の熱は失われて、誰もかれも引籠って修行をして、また社会に評価されるチャンスを伺っているようだ。また小説が世に注目され流行に至ったら、どんな天才が世に出るだろう。そもそも、社会は次の文学にどれほどの優遇や厚意を示すだろうか。

 私は世間の作家に戒めを与えたい。どんな時代にも美術家には高い志が必要なことは言うまでもないが、中でも現代の文学家は非常に大きな務めがあって、これに従うべきである、これが本論の主眼である。普通なら、世間が作家を受け入れるが、明治の今日においては、文芸の士が社会公衆を受け入れる大きな度量を持つ必要がある。なぜか。他でもない、明治の体制下の社会はあまりに若く、諸君の懇切な養育、多年の啓発が必要だからである。

 むかし王朝の頃、公家社会は十分発達するのに千年以上の歳月を費やした。これを植物の生長に比べると、種をまく第1期は神武東征のころ、成長する第2期は三韓来朝ののちにあった。省庁・官僚が設けられ、遣唐使や留学生が送られ、唐の法制度が採用され、仏教の伝来、様々なことがあってその間に公家が発達したのはどれほどのことか。そうして奈良平安に新たに都を定めて以降、開花の第3期においては、絵画、音楽、詩歌、建築、その他の美術が盛りに起きて、延喜・天暦(醍醐・村上天皇)の聖代を経て光彩燦然と輝くごとくであった。

 下って、封建時代になっても、鎌倉時代武家社会の萌芽があるばかりだった。その美術や文芸は公家社会の遺物であり、借り物で時代を装飾したに過ぎない。室町時代におよぶと、やや武家社会らしい美術も起こったが、これを子細に見ると明からの伝来が多く、武家のほとんどは兵馬のために寸暇も惜しいようだった。鎌倉時代には大名と言ってもわずか一万石ほどのもので数は非常に多かったが、室町になると大諸侯が各地に起こって際限なく争奪がなされた。このときを成長期として、慶長・元和に徳川の世になって以降は一転元禄の開花期に移り、それより徳川の文学が盛りに勃興したのはほとんど空前の様相だったが、武家時代の終局には700年の月日を要した。

 この武家社会の時代に続くのが、公民一統の社会である。しかるに明治の時代は、人民が公民の一員として芽を出したに過ぎず、諸君文学者が彼らに開花期の資格を求めるのは酷である。つまるところ、公民の社会は経済の社会でもある。こうした社会の多数が成熟して開花期に達し宝石を食べて香木を燃やす豪奢な時代に至るには今より数百年を要すべく、しょせんそれまでは美術で世を飾る力はなく、心を文芸の中に潜めて雅美を賞する余暇はないのである。諸君、私は明治の時代を、武家発芽期の鎌倉に比べたいと思う。これは封建文学の遺産に頼ったところが大きく、封建文学は王朝文学の流れをくむところが大きい。そうして今、小資本家が世間に多いのは、鎌倉の小大名の勢いがまだ弱かったことに似ている。これらの小資本家には、幾百年物の油絵や、肥えた馬や車のような奢侈を強いることは容易ではない。有形の装飾品ですら無駄遣いが出来ない小資本家に、無形の文芸たる詩歌小説の美術品をぜいたく品としてもらうことができることがあろうはずがない。一巻の本を買うのは容易であるが、それを繙いて楽しむ趣味教育を買うには幾年の歳月と資金を費やさねばならない。普通の趣味を養うのも難しいのに、諸君が書く文は西欧大家の名編に比するものであり、これを味わうのに高等な審美眼を要するだけでなく、絢爛たる純美感を描写するのに、わが国の古文辞あるいは解しがたい中国文学の口調を以てしている。一般社会が諸君の趣味についていくのが困難なのは、察するに余りあることである。

 私は諸君に望む。諸君がこの公衆の幼稚な趣味を啓発する労をとって世間を受け入れる大きな抱負を胸に抱き続けるとともに、その嗜好を平易にしてなるべく一般の公衆と娯楽をともにすること、これは私の常日頃の願いである。諸君試しに考えてもみよ、王朝の頃、博学の者は皆漢文を口にして六朝駢儷文を特に得意とした。しかしこの種の文章は伝わる者跡形もなく、かえって女流の手による源氏物語枕草子のような作品が光を放ち続けているのはなにゆえか。また封建のむかしには雅文漢文の名手は文芸社会に多かったが、西鶴などの諸作家は物語文の古い慣習を捨ててまた元禄以後の文体を興したのはなぜか。王朝の時代の物語、幕府の時代の戯作といい、最もその頃の言語に近い文体を選ぶのを見れば、時の言語と文芸の密な関係があるのを知れるはずである。

 諸君が時の文体を用いて、古文辞の優雅や外国文学の精粋を欠くのは仕方がないとして、これを用いて直接に思うところを映し出すことはいかであるか。しょせん趣味の幼稚な俗世間と嗜好を共にするのは諸君のしたいところではないが、もし諸君が世を忍び国を思い公衆を思う心があるなら、きっと著作社会が一般に対して持つ任務を知るところだろう。社会は文芸者の手によって成長する。願わくは諸君に繰り返し考えてもらいたい。

翻刻

 桜梅桃李咲き乱れて一時明治の文壇も百花爛漫のさまありしが、早や秋風の立ちそめけん、見渡す限り蕭条と楓葉蘆荻影寒げなり。これより文学は大に寂れて独り社会は蕭殺たる天地の中に取残され、世は霜枯の荒野に立ちて美文の栄華を失うべきか。さしも取り取りに愛でたかりし明治の小説は名残りなく嵐に吹折られて積雪の中に永く姿を没すべきか。誰れか知らん、文壇に当時索漠たる光景あるはいずれも冬籠の用意にして、やがて解雪の候を待ちて馬を中原に乗出さん勇気鬱勃たる有為の作家極めて少なからざるを。
 顧うに既往三四年來頻りに小説の世に行われて文学勃興の外観ありしも言わば一局部の事にして、社会の多数はこれが為めに何等の影響をも受けざりしに似たり。勿論其頃世に出でし多くの美文小説の中には稀れに少壮有為の作家が刻苦経営の余りに成りて案を拍って賞賛すべき名編なきにしもあらざりしが、それさえ世間の公衆には一顧の値遇をすら得ざりしなり。之を要するに当時の著作は欧米文学の刺激に出て、適々小説の流行と見えしも実は作家の間に止り、自ら製作して自ら狂奔し、これに僅かの青年者流が雷同したるまでなりき。其閑暇の境域の予想外にも狭かりしは、文技の拙かりし爲めか、意匠着想の浅かりし爲めか、但し社会公衆に一個の具眼者のなかりし為めか、兎に角杜撰なる著作の中にも天成の白玉はありしものを瓦石と共に砕かれしは惜むに余りあることなりかし。
 この孟浪文学に尋いで盛に起こりしは小説論なり。著作社会はこれが為めに一時耳目を奪われしが、詩論益々明らかとなりて駈出しの作者息を潜め、酔えるが如き文人詩客も終には夢の覚めたる如くに正気に返りたる今日此頃。着眼甚だ高き者は愈々心を天外に飛ばし、見地極めて卑き者は忽ち驚いて地上に堕落し、斯くの如くして著作の熱度は次第次第に冷却し、今は誰彼となく引籠りていずれも修業に余念なく、再び社会に打って出でん機会もがなと待つが如し。嗚呼文運復興して又々小説の流行に至らば如何なる天才の世に出づべきか。社会は次期の文学に対して抑も如何ようなる優遇を与え何等の厚意を表すべきか。
 予は是に至て世間の作家に深く警戒を加えたきことあり。いずれの時代にても美術家は抱負の大なるを要することは茲に言うまでもなけれども、別けて現代の文学家は非常に大なる任務を持して事に従うべしということ、是れ本論の主眼なり。普通の場合にては公衆が作家を容るることなれども、明治の今日にては文芸の士が広く社会の公衆を容るるの大度量を持たざるべからず。社会が作者を養うことは固より当然の事なれども、今の作者は社会を容れて之を懐にして養うの大精神を持たざるべからず。其故何ぞ。他なし、明治の公民社会は年齢極めて幼稚にして諸君の懇切なる鞠育と多年の啓発とを要すればなり。
 むかし王朝の頃公家社会は其充分なる発達をなすに千幾年の歳月を費しぬ。これを植物の生長に比するに、其第一期は播種期にして神武東征の以後に係り、其第二期は生長期にして三韓来朝の後にあり。八省は建てられ、百官は設けられ、遣唐使は派せられ、留学生は送られ、唐制の採用、仏教の伝来、種々の事ありて其間に公家の発達したること幾許ぞ。而して奈良平安の奠都以後、即ち第三期の開花期となりては絵画、音楽、詩歌、建築、其他の美術盛に興り、延喜天暦の隆治を経て光彩燦然として輝きしにあらずや。
 降て封建の頃となりても鎌倉時代武家社会の僅に萌芽を抽きたるのみ。其美術といい文芸といい皆是れ公家の遺物にして、借りて以て其時代を装飾したるに過ぎざりき。室町時代に及んでは稍武家社会の特色とも見らるる美術も起りしかど、之を仔細に観察すれば尚明よりの伝来多く、世間の多数は兵馬の事に殆ど寸暇もあらざりしなり。鎌倉時代には大名というも僅に一万石位のものにて其数極めて多かりしが、室町になりては幾十州に渉れる大諸侯各地に起りて其の争奪は際限なかりき。正しく此時は成長期にして、元和慶長の偃武以後は一転元禄の開花期に移り、それより徳川文学の盛に勃興したることは殆ど空前の有様なりしが、武家時代の終局には七百年の月日を要しぬ。
 この武家一統の時代に尋ぎしは公民一統の社会なり。然るに明治の時代は僅に公民が芽を抽て雨露に浴したるまでなれば、諸君が之に求むるに色香めでたき開花期の資格を以てするは抑々酷なり。畢竟するに公民社会は又経済の社会なり。然るに此経済社会の多数が悉皆成熟して開花期に達し玉を炊ぎ桂を燃いて盛に豪奢を闘わす迄に至るには少くとも今より数百年を要すべく、所詮夫迄は美術を以て世を飾る程の力なく、心を文芸の中に潜めて雅美を賞するの余暇なきなり。諸君、予は明治の時代を以て武家発芽期の鎌倉に比せん。これは封建文学の余沢に依頼する所多く、かれは王朝文学の流れを汲める所多かりき。而して当時小資本家が世間に最も多きことは何ぞ彼の鎌倉の小大名の勢微弱なりしに似たる。是等の小資本家に対しては強うるに幾百年の油絵を以てし、肥馬軽車等通常の奢侈を以てするも容易にあらず。有形装飾品すらも是れに強いがたきこと斯の如し、況や無形の文芸たる詩歌小説の美術品をや。僅に是れ一部の詩編なり、又一巻の美文たり。之を購うは易しと雖も之を繙いて娯しむの趣味教育を買わんと欲せば茲に幾年の歳月と資金を費さざるべからず。すでに普通の趣味をすら養うの難きこと斯の如し、況してや諸君が綴るところは西欧大家の名編に比したるものにして、之を味うには高等なる審美の眼孔を要するのみか、其燦爛たる純美感を諸君が文章に写出するには時に我邦の古文辞を以てし又は詰屈解しがたき支那文学の口調を以てす。一般社会が諸君と共に趣味を同うするの困難なる真琴に寔に察するに余りあることなり。
 予は此に於て諸君に望む。諸君がこの幼稚なる公衆の趣味を啓発するの労を取りて世を容るるの大抱負を常に胸懐に持すると同時に、又其嗜好を平易にして成るべく一般の公衆と娯楽を共にせられんこと、是れ予が平生の願なり。諸君試に思え、王朝の頃時の博学は器用にも皆漢文を口にして殊に六朝駢儷文は彼らが得意のものなりき。さるに這般の文章にして世に伝わるもの跡形もなく、却て女流の手に成りし源語枕の草子にして光彩赫耀千歳を照らすは抑も何故のありて然るか。又封建のむかし雅文漢文を能くする者文芸社会には多かりしに、西鶴其他の諸作家は断然物語文の旧套を捨て更に元禄体以後の文辞を興したるは何故ぞ。彼の王代の物語といい又幕世の仮作といい最も其頃の言語に近き文辞を選びたるを見れば、時の言語と文芸の密なる関係ある知るべきなり。
 諸君が時文の姿態を飾るに我が古文辞の優雅を以て若くは外国文学の精粋を抜くは固より不可なし。されど之を以て直接に所感を詠写するは如何あるべき。所詮趣味識の幼稚なる此流俗の一般社会を全然嗜好を共にするは諸君の能くせざる所又堪うべからざることなれども、若しも諸君にして世を忍び国を思い公衆を思うの心あらば須らく著作社会が一般に対する任務をも知らざるべからず。社会俳人の手に依って成長す。諸君願わくは三思せよ。