ティム・オライリー『WTF経済――絶望または驚異の未来と我々の選択』感想

 

WTF経済 ―絶望または驚異の未来と我々の選択

WTF経済 ―絶望または驚異の未来と我々の選択

 

 重要なメッセージは、翻訳版の表紙・背表紙・裏表紙にビッチリ書いてある。訳者解説にあらすじがまとめてあるから、大型書店でそこを読んでみたら、買うか判断が出来ると思う。

 著者のTim O'Reillyはコンピュータ関係者の誰もが知って居るオライリー社の代表者で、動物の銅版画の絵が表紙になっているあれらの本は、オライリーと仲間たちが先端的な技術の中心人物を集めて流行を促し、市場を作りながら素早く刊行をしているという。

 

諸悪の根源は情報技術ではないとオライリーが言う事項

 11章「スカイネット的瞬間」でオライリーは以下のようなことを言っている。

金融市場にとってよいことと、雇用、賃金、実際の人々の生活にとってよいことを混同するのは、財界リーダーや政策立案者、政治家たちが行う経済的選択の実に多くに観られる、致命的な欠陥だ。

 欠陥だろうが、彼らは故意に混同しているのだろう。株式資本主義の仕組みが、短期利潤追求を脅迫し、人間が排除すべき費用になってしまっている、ということについては、賛同する。しかしその前後に記されている「株価は企業の見通しであってそれを歪める行為は本物の成長を見えなくさせるインチキだ」という旨の主張は、「本当の株価」がどう計測されるべきかを示してもいないし、技術側の人間ならば、投資家の注文を受けてから執行までの時間をあえて遅らせる「スピードバンプ*1くらいは挙げてほしかった。あとがきで訳者がよそでの発言から紹介するには、オライリーは「営利外を重視するベンチャーやユーチューバー、メイカ―運動、クラウドファンディングの拡大で、各種プラットフォームに基づいた新しい価値流通の仕組みができる」と期待しているらしい。しかしシリコンバレー主導で資本主義批判、格差批判のムーブメントが起るとはあまり思えず、そうであればムーブメントは、オライリーたちのように洗練されたムーブメント創出・スター技術者集団は伴わないことになる。

 また、10章「アルゴリズムの時代のメディア」では、フェイクニュースのファクトチェックはアルゴリズムでできるから、メディアが信頼できる形で出所を明かせばいい、とあるが、加工された画像、歪曲した解釈がSNSに現れたとき、だれが責任を取るのかについては答えが示されていない。悪意をもって使っちゃだめだ、という規範を言っているにすぎず、これに関しては「嘘は嘘だと見抜け」というアドバイスの方がマシだ。

技術により「補助拡張された」労働者というオライリーの信念

 AIは職を殺しても雇用は殺さないのだし、新しい技能を身に着け続ける力があればやっていけるとオライリーは主張する。オライリー自身がイベント開催や書籍の発行を通して実践するように、新しい技術を誰かがわかりやすく便利な技能として教えてくれれば、誰もが仕事に活かすチャンスがある。情報技術は、投下する資本が少なくても新しい価値を生み出す道具になりうる知的体系であるから、淘汰されるのを待つ旧弊な環境ならいざしらず、変わりゆく環境への適応にはオライリーの伝授する情報技術は確かに一役買うだろう。インドではカーストを超えて技術者が育ち、中国では農村部でプログラミング教育が盛んである意味は明白である。

 13章「スーパーマネー」に、以下の文がある。

 知識を囲い込むのではなく共有することで、競争優位の強力なてこがもたらされる。企業はあまりにしあしば、イノベーションからの利得の取り分を増やす最高の方法は、それを独占することだと考えすぎる。だがLinuxとインターネットのオープンソース先駆者たちが教えてくれたように、知識は共有されると倍増するのだ。

 これは、本書中に繰り返し登場するオライリーの信念である。鉄鉱石からワンストップで車は作らないし、車輪は再発明しない。

 知識を囲い込むのではなく共有する、これは日本人には難しい信念だ。例えば武将細川幽斎古今和歌集の秘伝の解釈を伝授されていたがために命を救われた逸話があるが、権威づけられた知的財産を派閥や企業でレガシーとしていくことについて、表へ出したら市場が活発になるとか、そういった発想にはなりにくい何か歴史的なものがあると思う。日本主導で進む自動車自動運転ソフトのオープンソース化などは例外ではないか。国内で技術者、科学者のような専門家以外にオープンな知的体系でセミナーをやっているのは強いて言えば企業家くらいなものではないか? 巷のネットワーキングとかいうのは、技能に基づくコミュニケーションを前提にしているか?

 15章「人間を置き換えるより拡張しよう」でも以下のように繰り返されている。

 人類最大の発明は言語だ。頭から頭へと炎を渡す能力。知識が受け入れられ、広く共有されると、社会は進歩して豊かになる。知識が囲い込まれたり無視されたりすると、社会は貧しくなる。

 この文言を読んで、現代日本で盛況な業界について、言語以外に重要な価値伝達手段をもつ業界だけが、生き残っているのではないかという恐ろしいことを思いついた。医療、建築、スポーツ、漫画やゲーム、情報技術……受験産業を前提としている義務教育も知識の囲い込みの代表例として説明できる。とっくの昔に、知識は囲い込まれたり無視されたりして、日本社会は貧しくなっていたんじゃないか。

 また、情報技術の中でもクラウドのような抽象度が高い技術が普及しないのは(特に顧客が)言語を介した知識の共有が苦手だからなんじゃないか。経営者層の責任者ですら、2段階認証もわからないほど、知識への想像力も信念もない例もあるのだから、私の妄想でもあるまい。知識を前提として、より楽のできる枠組みで成果物をつくることについて反対する者はいないと思うが、それは経営者が「補助拡張された」労働者を理解して用いることが前提で成り立つ。オライリーはまた、ビジネスに関して現実の風景が素晴らしいものと欠点の混合で、経営者が思い描く未来は私たちとは異なるものを見ていて、明晰なものと欠点との混合である、ということを言っている。

オライリーのアドバイス

 終章の16章でオライリーは、長期的に考えよ・自分の手中に留まらない大きな価値を生み出せ・重要過ぎて、失敗しても、やるだけやったことで世界が良くなるようなことを追究しよう、などを言っている。

 オライリーは経営者たちには少なくとも、それは情報技術が達成するメカニズム、プラットフォームの改善に留まらず、当然文化・歴史的な位置づけについての信念も言っているだろう。誰も本気で信じちゃいないチープなコンセプトを掲げる会社に未来があるとは思えない。

 また、労働者にとって、こうしたアドバイスや108ページに掲げられたビジネスモデル地図のようなものは、そうした経営層のビジョンの深さを見るのには使えるかもしれない。