正宗白鳥『泥人形』感想

 

近松秋江+岩野泡鳴+正宗白鳥 (明治の文学)

近松秋江+岩野泡鳴+正宗白鳥 (明治の文学)

 

  明治44(西暦1911)年の作品。上掲の本は自然主義文学の3者の、明治40年代に書かれた代表的な作品が載っている。近松秋江『別れたる妻に…』の感想は昨日の記事に書いた。

 『泥人形』は、お見合いおばさんに7年も紹介され続けながら結婚してこなかった文人・守屋重吉が、相手はともかく次でと決心をして、いざ結婚をすると冷淡に振る舞い、妻も薄情な夫に苦心して試行錯誤をせざるを得なくなるさまが描かれる。

 結婚を決意できていないときの重吉は

「今の僕は真心で女房をかわいがることが出来るか知らん。姑がないの、生活に困らぬのと云ったって、それよりも女には男の愛情が何より必要なんでしょう」

と“当然のことを深い意味がありそうに”言っている。白鳥の小説は自然主義の派閥に属していて、白鳥自身の結婚をモデルにしている。それゆえ、重吉の上の発言をはじめとして、自分や他人の考えを読み解く冷酷な分析力があってなお、穏健に済まさずに酷薄に振る舞ったという著者の性格が作品を通じて随所に現れる。たとえば、重吉は紹介された女性と結婚する、といって決めた相手に、お見合いおばさんによる紹介に語弊があるから、お前の父に訂正して、ついでに結婚もなかったことにしようか、ととんでもないことを言う。

 

  珈琲館でこの作品を読んでいたとき、隣の2人組の女性のいずれかが、彼氏のSNSでの返事について話していた。長い文章を送ったのに対して返事が短い返しでしかなかったことについて憤りを感じたらしい。その彼氏が本作品の主人公・守屋重吉のような男だったならば、彼は社会の要請に従って婚活だか恋活だかをしているのであって、その女性に心底惚れているから付き合っているわけではない、返事をしてなお不満があるのなら別をあたってくれ、と思っていることになる。いや、付き合っているだけなら別れればいいが、結婚してご破算にしようかなどというのは、最初の数日で直接本人には冗談でも言うことではない。まあ、現代にそういう例がないわけはないだろうし、子どもを作って海外逃亡した舞姫の主人公よりはずっとマシかもしれない。

 「泥人形」の題は、作中で出てくる、20歳の新妻が家事をせず元の大家族のときと同じ振る舞いをしている様子を重吉が馬鹿にして

「そうですかね。僕は気の利かん女は実に嫌いだ。第一話が出来ませんからね。東京の水を潜っていないし、男に対する訓練が少しもないんだから、女の形をした人形に過ぎんのだ。それも安本亀八の丹念の作ならいいが……」

と言っているところから取られている。ひどい表現だ。

 以上のように平気な顔して妻を馬鹿にしているのは、受け入れがたい。まだ明治末期となると、女性蔑視の社会的背景があって、そういう表現をしても読者から許される雰囲気があったのだろう。著者の白鳥も、当時のそうした風潮の中で、似た振る舞いをして許されていたが、その人間性は現代にはあまり通用しなさそうだ。ただしこの汚点を前もって除いたら、評論家として文壇に長く活躍する鋭い人物は現れない。タブーに触れる空気の読めなさが、白鳥に何事にも懐疑を向けることを可能にしている(現代でも、若手?ゲンロン家として活躍されている方々にはそういうところがあるんじゃないかと思う)。

 

 

 書中で白鳥の作品は『何処へ』も載っていたが、いずれの主人公がどんな不幸な境遇に至っても同情しないが、彼の悩みに対しては部分的には共感もあるし、優れた作品であるといくつかの観点から言うことが出来る。

 

 第一に、世の中に飽き飽きしている、という人間の心理描写がよい。劇評のしすぎで見るのも嫌になるという、凝り性の悩みに真実味がある。趣味の延長だったものが、だんだん細部までが良し悪しの評価対象になって、あるいは当代で最高のものとの比較になって、窮屈な思いをしなければならなくなる。『泥人形』の重吉の場合は、浄瑠璃を見ている間、見慣れた劇そのものへ熱中しきれずに、そのうち個別の構成要素に次々と目を移しながら、昔の名優による名演を懐かしんでしまう。趣味にすら飽きた人間が、熱中できることがなくて飽き飽きしている様子が随所にちりばめられている(脱線すると、これは趣味の本気度の線引きに示唆があると思う。基礎練習の負荷の強さ、かける時間は、達成目標次第であり、他の活動とトレードオフになる。睡眠を削って熱中できるか、自分だけの目標を追い求めるか、比較対象の知人から離れるか、そういった客観視がないと趣味は苦しい)。

 

 第二に、人を愛せない男の心理描写が、他の作家には珍しい。恋愛至上主義に対して全くの否定的な立場をとってその心持ちを明瞭な言葉遣いで述べているところには価値がある。

彼れは結婚の利益をも考えた。世間の信用や、親類の信用や、金の融通にも独身よりも便利なことを考えた。老いたる独身者の見窄らしさも思った。だが、それよりも、心の底では柔かな愛情が慾しかった。浮いた色恋でない穏やかな情愛の中に、疲れた荒れた心を休ませたかった。結婚さえすれば急に世の中が幸福になろうとは、夢更思わないけれど、その外に心を休める術はなかった。

 現代の知識人が言ったら炎上するが、「まだ結婚していない男に対する社会的な視線」と、それを受ける愛の薄弱な男の不安感は、現代の多くの場合もこうかもしれない。

 

 第三に、明瞭な文体が読みやすい。同書中の秋江・泡鳴と比べて段違いによい。私の場合、近松秋江の4・5人しか出てこない作品ですら「それってお雪の話か?」と一瞬迷ったりするくらいだが、白鳥の地の文はどこまでも筋道が通っている。構成もわかりやすく、演劇に関する表現がある程度まとまって書かれた後に結婚の周旋をしてもらっている場面が続き、その合間々々に主人公の心理描写が行われと言うのが繰り返されるなど、淡白な展開が典型的であるように感じる。

 反面、白鳥の文学作品としての欠点として、主人公の男性以外、特に女性の心理描写は表面的なところをなぞるばかりである点がキーン(『日本文学史』)によって指摘されている。豊饒な人物描写、一側面的ではない人間の姿が描写されてこそ名品だと思えば、単調で粗末なのも読みやすさの一端と言える。しかも主人公が内面の心理を深く掘り下げるわけでもない。そうなると文学的には本作品は一級品としては確かに評価できない。とはいえ私の稚拙な読解力もあって、筋が追いやすいのはよかった。本当はロシア文学くらい登場人物たちが多様な思想を持っていて、それらを追えてこそより深く文学を味わえるのであろうが。

  白鳥の明瞭な文体は、あなたの評論は売れると小林秀雄に言われたように(『対談 大作家論』)、批評における才能の表れであると思う。例えばキリスト教の聖書に出てくるフレーズを批判してキリストもただの人だと言ってしまう若いころの作品(『論語とバイブル』)があるが、一度は洗礼を受けて詳しく聖書を読み込んだからこそできる芸当であると言うことを、その批判的な立場に対して注意の必要なところであると思う。