感想『経済学者の勉強術: いかに読み、いかに書くか』

 

経済学者の勉強術: いかに読み、いかに書くか

経済学者の勉強術: いかに読み、いかに書くか

 

  経済学者研究者・書評家の著者が、その30年の来歴・体験を踏まえて読書と勉強の技術を紹介する。幅広い知識、語学、古典を重視している。後半ではまた、縦につながる学説には他の学説との間で成立の時期がわかりづらいので、横に同じ年における経済学学説がいかであってかを見てみよう、というアプローチを述べるなどしている。

 

 「好きな本を、好きな方法で読めばいい」というオビのフレーズに惹かれて読む。なんとなく本を読んでは、この営みに意味はあるのかと疑問を感じる身としては、こうした読書についての楽観的なアドバイスに励まされる。著者は若いころ、経済学やノンフィクションを少し読んだくらいだったらしいが、高校生の頃から語学が堪能で、大学で研究をする傍ら英語、ドイツ語、フランス語の文献を紹介するバイトをしていたほど。読書のきっかけが病気になったとき手を取ったから、とあったが、病気になって暇だから本を読もう、という流れになるあたり、素晴らしいご両親をお持ちであったに違いない、と思う。語学を堪能になる経緯も同じく、周囲に英書を読む友人・知人が少ない中で、高校生で読みこなしたというのは、非母国語の書物へ注意力を向け続けることができる他人と独立したモチベーションが続いたということだろうが、親族の中にきっかけを与える者がいたり、家族が好意的・積極的に捉えたり、といった暗黙の条件があったはずだ。語学に限らず、幅広い知識、古典を若いころより習慣的に大切にできるというのは、一人暮らしを始めるまでの環境に拠っている(自らは読まないのに、子どもには文学作品を勧めるのはどういうことだろう?)。著者が恵まれた境遇をどこまで客観視しているのかは知らないが、「好きな本を好きな方法で」というのは、誰かが定めた領域に留まらずにのびのびやれ、という励ましの言葉として、ありがたい。


 「新書は学生の勉学意欲を引き出すために書かれている。関心をもった学生は、もっと専門的な解説書や原典をひもといて、学び続けていかなければならない。……一冊で教養が身につくような本はどこにもない。」(p.100)という記載は耳が痛い。私は書籍へ向かうときに、それへ中心的な興味を持っている自認を持ったことがほとんどなかったことに気づいた。私にとっての読書は、ニュース記事のちょっと長い読みものくらいの感覚で通り過ぎることが多い。読書を終えたあと、ウナギが絶滅するから禁漁の社会運動を起こすわけでもなければ、自ら分子構造や流体力学の演算を行うわけでもない。これを読みたい、深掘りしたい、というのは、情熱や勢い・思い込みが切っ掛けでやっていくものだろうが、私にはせいぜい、読まないことに負い目を感じたり、それを読む間は時間や苦痛を忘れられたりするくらいの関心があるに過ぎない。それでももっと専門書や原典にあたってみたくなる本はあると言える。ここで私には障壁になるのが、たいていの権威ある専門書は英語で書かれていることであるが、著者の場合、経済学史を自然ななりゆきで専門としていった経緯が説明されていて、自然であったというのが、先の語学力に負うに違いない。

 好きが高じて語学の壁を乗り越えることもまた、情熱などが切っ掛けになると思われるが、壁を超えた人が得る利益については、例えば、近代の著名な作家たちはほとんど全て(武田麟太郎のような例外を除いて)、海外文学から刺激を得て作品を残した事実からも、言葉を介するあらゆる芸術・趣味・娯楽が、非母国語の理解によってより深くなると思える。


 教養は知識と違う、といった記載(p.168)は、よく主張される命題だと思う。新書百冊読むよりこれを読め! というキャッチコピーがあるが、教科書・厚い参考書の類にこそ、結局は知識も教養も内包されているに違いない。「教養」は歴史的に曖昧な定義で用いられてきた言葉だが、広義で言えば、ものを考える道具として使うことができるに至って、知識から離れて教養になる、と定義されているのだと私は思う。業務知識が深ければその職場では「教養がある」といえるし、趣味の友の間で映像やデータをもとに仮説を立てて議論をすることができればその筋では「教養がある」といえるはずだ。


 香港回収作戦(p.134)や、八幡・富士製鉄の大型合併問題(p.163)など同著者の書評紹介も行われていて、どれも面白い。専門外では、音楽と歴史について書かれた本を選ぶことが多かったそうだが、書中に小林秀雄の言葉を引用していることから、音楽に関して評論で有名な『モオツァルト』は読んでいそうだな、と想像した。