感想『人間の進歩について 小林秀雄全作品〈16〉』

 「人間の進歩について」は首尾一貫して2人の論者の機転に驚く。こうした話題について専門が違うのに対話が成り立つのが凄く、本当に口頭で話された内容かとすら思われる。それゆえ、小林が知らずに聞く場面に印象が残る。

 冒頭から小林が因果律決定論が近年の発見・実験から否定されているのか、と聞いているが、現代人から見ると電子軌道や放射性原子の崩壊が確率的に決まっていることは高校教育で習うことで、微視的に現象の因果関係は確率的法則に支配されていて、法則性を強調すると決定論的で、確率的に生じた結果は開けてみないとわからない点で非決定論的だ、という湯川の説明は自然なこととして受け入れられる。

 偶然についての認識は、科学(客観)と人間の感情(主観)とでは異なるという小林の説明は興味深い。屋根から石が落ちてある男が死んだとして、怪我で済んだときにくらべて、男が死んだという意味を持つとき、人はそれに伴う生活感情を生じさせるので、運命感には大きな違いがあるという。これは主観的な確率が客観的な確率とは違うことの説明になっていると思う。低い確率に関する生活感覚は、どこからか物理学がとらえるものとは異なってしまう。湯川が例示するように、日が昇るのは経験則からもわかることだが、理論に基づいてやはり昇ってくるのであり、さらには人間的尺度ではゼロとみなされる低い確率で軌道が逸れるか、自転が遅くなることで、次の朝に日が昇らないことを現代の科学は加味する。ところで21世紀には、小林らがまだ遅れているといった心理学などからこうした認識の違いに光を当てていて、低い確率の反復試行に対する生活感覚は、一般に周期的なアタリを含むものであると実験から示されるなどしている。これは生活にはインパクトのないことだが、小林・湯川が享受できなかった科学の進歩を得ていると認識されて、不思議に感じた。

 小林が非常に低い確率についての認識を対談の中であまりわかっていないようなのも興味深い。無限に時間があればそれは起りうると考える「永遠回帰」の立場に小林は立つが、湯川は丁寧に否定して、以下のことを述べる。すなわち、①宇宙は有限の寿命しかもたないかもしれない(現代の宇宙物理学でも、宇宙の膨張が加速的であることは観測されているものの、すぐさまビッグ・クランチが起らない証拠とはみなされていないはずである)こと、②同じ法則にしたがうことなる宇宙、世界が同時にある中で現実には有限個の出来事だけが実現されている、と考えること、③近似的に説明ができるのでそうである、という信念を以て法則は支持されており、確率を超えて将来何が起こるという信仰に対して、科学者は何も言えないこと。――似非科学が付け入るスキがここにあるのだと納得させられる。

 湯川の「新鮮な感受性と、一つのことをやり出したら他のことは忘れてしまうというようなところがないといけなくて、矛盾を感じてもやめたら何もできない」(大意)といった発言ののち、小林が「自分の素質の制約を肯定し対決することで仕事をする」と言い、湯川は「今まで深めてきた領域を、40代になった今一度ご破算にして横に広げたい」と言う。この前後の文脈で、やってみないと成果が出るかはわからない、ということも両者は同意していることを加味すると、小林が晩年に『本居宣長』を完成させて、湯川が中間子理論以後、理論的な成果をあまり挙げなかったが原子力行政などで活躍したという帰結は、人間個人の進歩に関して、感慨を覚える。

 「人間の進歩について」は以上のように思考を刺激された。ほかにも、「言葉というのは、非常に観念的なものが、物的な道具と見えてきて、使いこなすことができるようになるのはむずかしい、詩人の仕事です。詩人の使う言葉は決して観念じゃない。詩人は画家が色を、音楽家が音を使うように、道具的に言葉を使っているわけです。結局小説家でもなんでも一流の人はそういう風に言葉を使い得ています。そういうふうに使えないのはまだ素人なんで……。」「教育は厳格な訓練であるのが原理であって、個人の尊重は道徳の原理であるから、訓練の結果うまくいかなくて妥協して個性の尊重だというのはおかしい」(大意)といった発言など、格言にみちている。

 難しい小林秀雄も、対談は読みやすい。ドストエフスキーについての論説は今の自分には意味不明。チェホフについては、興味が湧いたが、夢オチを付けてもチェホフがオニギリの海苔の話を持ち出すのは滑稽。骨董に凝って文学をやらなかった時期があるというのは人間味がある。